壺齋散人の 映画探検
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秋日和:小津安二郎の世界



小津安二郎は、家族関係を好んで描いたためか、同じような内容の話が多いし、また題名も似たようなのが多い。中でも小津が特に好んだのは娘の結婚をめぐる親子関係の話だ。「晩春」、「麦秋」、「彼岸花」といった一連の作品がそれで、娘とその家族との関係を様々な角度から描いている。「秋日和」もその系譜に連なる作品だ。筋書きは「晩春」とよく似ている。「晩春」では娘の結婚を按ずる父親が描かれていたが、ここでは父親の代わりに母親が娘の結婚を心配するのである。

「晩春」では妻をなくした父親が出てくるが、「秋日和」では夫をなくした母親が出てくる。映画はその亡くなった夫の七回忌の場面から始まる。いきなり東京タワーがアップで映し出され、その近所の寺で法要が行われるという設定だ。小津映画と言えば、鉄道の駅や走っている列車を映すところから始まるのが多いのだが、この映画が東京タワーのアップから始まるのは、完成したばかりのこの名所を中々見られない人々にむけての、精々のサービスのつもりだったのかもしれない。というのも東京タワーはこの映画が公開された直前(昭和33年の暮)に出現し、日本中の話題になっていたからである。

その法要の席に出席した父親の3人の友人たちが、成長した友人の娘を見て、是非結婚相手を見つけてやろうと言い出すところから物語は始まる。この映画は、一方では娘の幸せな結婚を願う母親(原節子)と、その母親を一人残して自分だけ幸せになることに引け目を感じる娘(司葉子)の関係を描くとともに、この母子に余計な世話を焼く親爺どもの滑稽な役回りを描くコメディでもある。

佐分利信演じるところの親爺役の一人が、娘の結婚相手に自分の会社の下僚はどうかと母親に持ち込む。母親はすっかりその気になるが、娘の方はいい顔をしない。私が結婚してしまったら、お母さんは一人ぽっちになってさみしいでしょ、と気遣っているのである。そんなことはないから是非結婚しなさいと母親は言うのだが、それでも娘は首を縦に振らない。そんな娘をみて母親はあせる。しかし、娘にはその気持ちが届かない。母親は結婚することが女の唯一の幸福だと思っているのに対して、娘は結婚が必ずしも女性の唯一の生き方ではないと思っているようなのだ。そこに二人のすれ違いがある。

すれ違いは、親子の間ではあまり大きな問題には発展しないが、そこに他人が入り込んでくると、ややこしい事態に発展する。母親が一人ぽっちなので娘が嫁にいけないのなら、思い切って母親を一人ぽっちにさせないようにすればよい。つまり母親に再婚させればよい。そうすれば娘の方も安心して嫁に行けるに違いない。そんなことを親爺達が考え付くのだ。

ところで母親に相応しい再婚相手はどこにいるだろう。親爺たちが額を寄せ合って鳩首しているうち、その中の一人で4年前に細君をなくした大学教授(北竜二)が相応しいという結論に落ち着く。教授は当初、二人の友人の唆しを強く固辞する姿勢を見せていたのだが、そもそも原節子には学生時代から恋心を抱いていたこともあって、彼女との再婚を楽しみにし出す始末なのだ。

こうして物語は壮大な喜劇へと発展していく。その喜劇を引き回す口上役は佐分利信が勤め、そこに司葉子の大の仲良しである岡田茉莉子が加勢するといった具合だ。

喜劇の伏線として、佐分利信の紹介した男(佐田啓二)と司葉子は、結局ひょんなことがきっかけで付き合い始める。それを知った佐分利信は、司葉子に向かって結婚するように口説くのだが、司葉子は相変わらず首を縦に振らない。ほんとに好きなら結婚すればいいじゃないか、と佐分利信はいうのだが、司葉子は「好きと結婚は別です」といって佐分利信を困らせる。そこで佐分利信は、お母さんのことが心配で結婚できないのなら、その心配はいらない。お母さんには再婚話があって、御自分の未来は御自分なりに考えているのだから、あなたは余計な心配をしないで、自分の幸せだけを考えたらよいのだ、と口を滑らせてしまう。

この話を聞かされた娘の司葉子は大いにショックをうける。父親の思い出がまだありありと残っているというのに、母親が他の男と結婚するなんて許せない、不潔だというのである。娘からいきなりそんなことを言われた母親はびっくりする。寝耳に水だったからだ。

親爺たちのせいで母子関係がおかしくなってしまったのを知った司葉子の友人(岡田茉莉子)が、親爺たちの許へどなりこむ。あなた方が寄ってたかって話を複雑にしているとすごい剣幕なのだ。その剣幕に親爺たちはたじろぐのだが、事情を話し合っているうちに、原節子を再婚させれば司葉子も安心して結婚できるに違いないという結論に達して、互いに意気投合。これからは、母親の再婚と娘の結婚にむけて共同戦線を張ろうということになる。

そんな調子でドタバタが続くうちに、母と娘は和解する。母親は再婚し、娘は結婚するというのがその和解の内実だ。そして和解のしるしに二人で温泉旅行をすることになる。二人は榛名湖畔を共に散策し、伊香保温泉に泊る。一つの部屋に布団を二組並べてしみじみと語り合うその場面は、「晩秋」におけるあの父娘の場面の繰り返しだ。あの場面では原節子は娘の役を演じていたのだったが、ここでは母親の役を演じている。なんとも不思議な気持ちにさせられる場面だ。

この場面の中で、母親は娘に向かって、再婚の意思はないと告白するのだが、それは始めから母親の本心であったようだ、と思わせるところが心憎い。母親は娘が安心して結婚できるように、再婚話に乗ったという風に感じさせたのだ。

結局この物語は、女は結婚するのがあたりまえ、という強力な社会通念の上に成り立っている話だといえよう。結婚しない女は落ちこぼれだ、という強迫観念があるからこそ、こんな話が喜劇としてなりたちうるわけだ。

ところでこの映画では、最初のシーンも最後のシーンも、鉄道とは無関係だ。小津にしては珍しい。しかし鉄道は映画の中程で出てくる。司葉子と岡田茉莉子が勤めているオフィスの屋上から、かつての東京中央郵便局の駐車場超えに国鉄の高架線が映し出される。そこに昔の東海道線が走っている。この映画が作られたころには、新幹線はまだ走っていなかったのだ。

伊香保温泉の場面では、女子学生の修学旅行の団体が合唱するところが出てくる。歌っているのは「山小屋の灯」だ。伊香保温泉と山小屋の灯がどこで結びつくのかよくわからないが、この映画の当時には歌声喫茶が流行っており、そこでこの歌がよく歌われていたということはある。そんな時代背景を何気なく感じさせるところにも、小津一流の気配りが伺われる。

ところで、岡田茉莉子が親爺たちに向かって放った「皆が寄ってたかって話を複雑にしている」という言葉は、小津自身の信念でもあったようだ。小津はこの作品について次のように語っているのである。

「世の中は、ごく簡単なことでも、みんなが寄ってたかって複雑にしている。複雑に見えても、人生の本質というものは、案外何でもないことかもしれない。これを狙ったのが今度の作品です」

最後に一言。この映画の中での佐分利信の演技は見ものだ。佐分利信と言えば恰幅のよい紳士役、あるいは頑固な親父役といったイメージが強いが、この映画の中ではトリックスターの役柄を見事に演じている。いい親爺がトリックスターを演じるなんて、まさに関節外しの技だ。茶目っ気のある表情が何ともいえない。




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