壺齋散人の 映画探検
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東京の合唱:小津安二郎



小津安二郎は、1920年代の末から30年代にかけて多くの作品を作り、すでに大家のイメージを確立していた。欧米では30年代に入るとすぐにトーキーが主流となるが、日本ではやや遅れ、小津の場合には1934年の「母を恋はずや」までサイレント映画を作っている。小津の映画の特徴は小市民の生活をコメディタッチで描くことにあったので、サイレントに適していた。そんなこともあって小津のサイレント映画は、いまでも十分鑑賞に耐えるものが多く、しかも溝口と違って多くの作品のフィルムが現存している。

1931年の作品「東京の合唱」は、小津のサイレント映画の傑作の一つである。失業した男が新しい就職先を求めて苦悩する姿を描いており、テーマとしては深刻なのだが、コメディタッチで仕上がっている。この時代は日本の不景気が一番ひどい時期で、大学を卒業しても勤め先がないくらいだった。まして失業したら、再就職はきわめて難しかった。そういった事情は前々年の作品「大学は出たけれど」の中でも描かれていたが、この映画の主人公の場合、妻と三人の子供を抱え、事態は一層深刻なわけだ。だがその深刻な事態をさらっと流してコメディタッチで描いてゆく。小津の真骨頂ともいえる映画である。

映画は高等学校の体育の授業から始まる。これは映画の本筋とは関係のない話で、後々の伏線として使われている。何年か後、その高校生の一人が保険会社の社員になり、妻と三人の子どもとともに幸せに暮らしている。ところがこの男(岡田時彦)は意地っ張りなところがあって、同僚の老人(坂本武)の解雇を撤回するよう社長に談判したことで、自分も解雇されてしまう。この男には貯金というものがないようで、無職になった途端金に困る始末。娘が重病にかかり入院させたはいいが、病院に支払う金がない。そこで妻に黙って箪笥の中の着物を全部売り払い、それで金を工面する始末だ。

妻(八雲恵美子)も子供たちも逆境にめげず、明るくふるまうおかげで、男はあまりいじけずにすむ。そんなところに偶然高校時代の恩師(体育の教師)と出会う。この恩師(斎藤達男)は教え子の境遇を聞いて、開店したばかりの自分の店を手伝わないかと持ちかける。その時の男の言い分が面白い。「わたしへの哀れみの気持からそういうのなら辞退します。しかし恩師としての命令ならばお受けします」というのだ。落ちぶれても誇りは失わないでいるわけである。

こうした誇りは妻も共有している。妻は子供たちと外出中に偶然サンドイッチマンのような真似をしている夫を見てショックを受ける。子供らにパパがあそこにいると指摘されても、あんなパパがあるもんですかと言い、夫に向かっても、自分の夫があんなことをするのは我慢ならない、といって責めるのである。こういう感覚は当時の多くの日本人が持っていたものなのだろう。

男は学生時代の友人たちを集めて、恩師の店の開店祝いパーティを催す。大勢の仲間が集まってきて、ビールを飲みながらカレーライスを食う。この時代のカレーライスはご馳走だったのだろう。このパーティの席上郵便物が届き、男の就職先が紹介される。恩師が教え子のために口を利いてくれた結果だった。

こうして男は新しい生活の目処がついて、妻とともに喜び合う、というわけである。彼らの喜びを祝福するかのように、集まった仲間が輪になって合唱する。題名の「東京の合唱」はこのことを言うのだろう。

子供たちのうち長男を演じた菅原秀雄は、この後の作品「生まれてはみたけれど」でも出ている。また長女のほうは幼い高峰秀子が演じている。





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