壺齋散人の 映画探検
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出来ごころ:小津安二郎



「出来ごころ」はいやみのない人情コメディだ。小津と言えば、中流市民の悲哀を描いた戦後の一連の作品が有名だが、戦前には下層の庶民社会を舞台にした心温まる人情コメディを多く手がけた。「出来ごころ」は、そんな傾向の映画の中で出来のよい作品だと思う。

「出来ごころ」というと、つい魔が差して悪いことをしてしまった、というような否定的なイメージがある言葉だが、この映画の中では、中年男が柄にもなく若い女に惚れてしまった、というような場違いな感じを表している。坂本武演じるこの男は、小学生の男の子と二人で長屋暮らしをし、近所のビール工場で働いているのだが、ある夜、仲間の男(大日向伝)と一緒に寄席に行った帰りに一人の女を拾う。その女(伏見信子)は身寄りもなく、今夜寝るところもないというので、同情した坂本が行きつけの飯屋の女房(飯田蝶子)にあずかって貰う。

そこまではよかったのだが、男はこの若い女に惚れてしまい、俄に青春が戻ってきたような気持になる。仕事も手につかず、女のことばかり気にしているそんな父親を、息子(突貫小僧)は冷ややかな眼で見ている。一方女のほうは、大日向に惚れてしまい、なんとかして一緒になりたいと思っている。そんな女の気持を汲んだ飯屋の女房が、女のために一肌脱ぐよう男に頼み込む。頼まれた男はいやとはいえず、自分が惚れているその女の望みをなんとかかなえてやりたいと思う。という具合で、なんともお人よしの中年男をめぐって、ほのぼのとした人情喜劇が繰り広げられる、というわけなのである。

喜劇であるから無論ハッピーエンドになっている。さまざまな紆余曲折を経て、女は愛する男と結ばれ、男も死にかかった子どもが生き返ったりして、未来に希望をつなぐ。これもお人よしの飯屋の女房ばかりは、なんということも起らないが、彼女はそんな毎日を無事に過ごすことができるのを心から喜んでいるのだ。

とにかくこの映画には悪い人間は一人も出てこない。みな気持の優しいいい人間ばかりである。床屋の親爺などは、男が病院の費用が払えなくて苦しんでいるのを見ると、他人事と思えずなけなしの金を貸してやったりする。男はその意気に感じ、自分を北海道に身売りして借金を返したいと思うのだ。戦前の日本には、女の身売りばかりか、男の身売りもあったのか、と思わせるところだ。

坂本武は小津映画の常連の一人で、「東京の合唱」では年老いた社員を演じていた。その時の彼は三十を過ぎたばかりだった。この映画の時点でもまだ三十三四なのに、すでに中年親爺の雰囲気を漂わせている。こんな親爺に惚れられたら、若い女はさぞ迷惑するだろう、と思わせるような演技ぶりだ。

ところで、突貫小僧演じる息子が、父親から五十銭の小遣いをもらい、それで菓子を買い食いして腸カタルになる話が出てくるが、腸カタルになるほど大量の菓子が当時は五十銭で買えたというので、筆者は昭和初期の一円の価値はどれくらいなのか、気になった。当時と今の物価は単純に比較できないので、なかなかむつかしいのだが、一番近似値が得られやすいのは官吏の初任給だろう。そこで昭和初期の官吏の初任給を調べたら七十五円とあった。いまの国家公務員の初任給は二十万円程度だから、両者をもとに比較すると、昭和初期の一円は今の二千七百円ほどになる。だからこの息子はその半分の千三百円ほどを小遣いとしてもらったことになるわけで、それだけあれば使い方によっては、かなりの量の菓子が買えたわけだ。





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