壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




淑女は何を忘れたか:小津安二郎



小津は、1932年のサイレント映画「生まれては見たけれど」で、子供の目から見た大人社会の滑稽さを描いたが、それから五年後に作った「淑女は何を忘れたか」では、同時代の日本の夫婦関係の滑稽さを若い女の視点から茶化して見せた。「生まれては」では、しがないサラリーマン一家が舞台となっていたが、こちらでは麹町の住宅地に住むプチブル一家が舞台だ。その一家の亭主は大学の教授なのだが、どういうわけか細君に頭が上がらない。もしかして養子なのかもしれないが、映画はその点を明らかにしない。あくまでも、気の強い細君と、彼女に頭の上がらない気の弱い亭主の組み合わせとして描いている。

この一家のもとへ、大阪の姪が居候している。彼女は亭主側の親族らしい。その親族としての眼から叔父夫婦を見ていると、叔父が叔母に頭が上がらず、つねにおどおどしているのが不甲斐ない。日本の夫婦というものは、夫唱婦随があるべき姿で、亭主はどんとしているものなのに、この叔父ときたら、つねに妻に遠慮しておどおどしている。そんな叔父をこの姪は、「オジ公」といって軽蔑する。

姪はいうのだ。「旦那はもっと威厳を持たにゃあかへん」と。その言葉に発奮した叔父は、自分を罵る妻の顔に張り手を食わせる。それを見た姪は、心の中で拍手喝采する。ところが打たれたほうの妻は、怒り心頭になるかといえばさにあらず、思いがけず強気な亭主に却って男らしさを感じてしまうのだ。感じたついでに忘れていた性欲が俄に頭をもたげ、亭主に向かって迫るありさまである。というわけで、この映画は、倦怠を脱して愛を取り戻した夫婦の物語にもなっている。

こんな映画は、日本人だから思いつくのであって、欧米人には決して作れないだろう。

夫婦を演じた斎藤達男と栗島すみ子は、成瀬の映画「夜毎の夢」でも不幸な夫婦を演じていた。その時の栗島は、サイレントということもあって、身振りに独特の色気があったのだが、この映画の中ではやや冴えない印象だ。声があまり色っぽくなく、しゃべり方にもなまりがあるからだ。トーキーになって人気の衰えた女優は、声にその原因があるとよく指摘されるが、栗島の場合もそのケースなのだろう。

姪を桑野通子が演じているが、これはなかなかモダンガールの雰囲気を振りまいている。そのモダンガールが、東京の芸者を見たいといって、どこかの花街で芸者をあげ、叔父といっしょに遊ぶ。費用は自分持ちだ。若い女が自分の金で芸者をあげるなどは、当時としては仰天動地の事態だったろう。

一方、細君の御茶仲間の年増たちは、暇にあかせて、これも遊んでばかりいる。といっても、喫茶店でお茶を飲んだり歌舞伎座で芝居を見たりする程度だが。吉川満子と飯田蝶子がその御茶仲間として出てくるが、飯田のほうは、奥さん役が柄にもないといった感じで、どうにもちぐはぐな印象を与える。その彼女が妊娠をつげる場面があるが、飯田がそれを言うと、見ているほうには冗談としか映らないから、飯田にとっては気の毒な話だ。

なお、題名にある「淑女は何を忘れたか」は、日本の女は慎みを忘れてはいけない、という教訓を、小津なりに表現したつもりなのだろう。慎みを忘れなければ、もっと楽しい人生を送れますよ、というわけであろう。





HOME日本映画小津安二郎次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである