壺齋散人の 映画探検
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稲垣浩の時代劇「瞼の母」:長谷川伸の小説を映画化



稲垣浩は、「無法松の一生」のイメージが強い。戦前には坂東妻三郎、戦後には三船敏郎を松五郎役にして、二度にわたって作ったし、戦後版はヴェネチア国際映画祭でグランプリを取った。だが稲垣は時代劇のほうが性にあっていたらしく、生涯に膨大な数の時代劇作品を作り続けた。「宮本武蔵」シリーズは特に有名だが、「瞼の母」は彼の初期の代表作である。

「瞼の母」は、長谷川伸の同名の小説を映画化したものである。この小説は1930年に雑誌に掲載されたが、大変な評判となり、その翌年稲垣によって映画化された。内容的には新派風のお涙頂戴劇で、やくざ者が幼い頃に生き別れた母親を恋い続けるというものだ。やくざが母親を恋い慕うというのは、今の時勢なら洒落にもならないと思うのだが、当時は人々の涙を誘う話だったわけだ。

そんなわけでこの映画は、今の人が見ると、尻がこそばゆくなるようなもどかしさを感じさせるのではないか。大の男が母親を恋い求めて各地を捜し歩き、やっと出会ったはいいものの、その母親から、お前など知らぬと邪険に扱われ、まるで幼い子供のようにふてくされてみせる。要するに自立していないマザコン野郎が、母親に甘える物語なのである。

そのマザコン野郎を、マッチョの鑑というべき片岡千恵蔵が演じているわけだから、この映画にはなんともいえないミスマッチな感じが漂っている。あのマッチョな片岡千恵蔵が、母親に思いがけず邪険にされて、途方にくれたり、ふてくされたり、くやしがったり、挙句の果ては涙ぐんだりする。日本の映画に全く門外漢の人がこの映画を虚心に見れば、片岡千恵蔵という役者は、めめしさを売り物にする大根役者に見えるだろう。

そこで筆者は、1930年前後の日本には、こういうタイプの映画を受容させるどのような事情があったのか、考え込まずにはいられなかった。この当時の日本は、まだ発展途上国であり、大勢の子供たちは、成人する前に親元を離れ独り立ちしなければならなかった。いわば彼らは乳離れがすまないうちに、乳を拒絶された人だったわけだ。そういう人達なら、番場の忠太郎(この物語の主人公)に、感情移入できるかもしれない、そんなふうに思えてもきた。

1931年に作られたとあって、無声映画である。無声といっても、当時の日本では活動弁士というものがいて、画面の進行にあわせて喋りまくっていた。そのしゃべり方にはいろいろあったらしいが、なかにはトーキーだったら役者自身の声で語られるべきところを弁士が代弁してしゃべっているようなところもあった。筆者が見たものは、デジタル・リストア版で、非常に雄弁な弁士が物語の進行具合から役者の台詞回しまでしゃべっている。音声情報という面ではトーキーを見ているのとかわらない。というよりか、動く紙芝居を見ているような感じなのだ。

忠太郎の母親おはまは、料理屋の女将ということになっているが、鉄漿をつけていかにも昔の女の風情を感じさせる。妹のおとせを演じているのは山田五十鈴で、このときはまだ十四歳の子供だったにかかわらず、堂々とした演技をしている。さすがは演技の天才、女優の鑑だ。

片岡千恵蔵は、上述したように本来はマッチョな役柄が似合うのだが、この映画ではさえないやくざ者を演じている。それでも時折は、すごんだ表情を見せたりして、そういうときには歌舞伎役者の出らしい様式的な爽やかさを感じさせる。無声映画で役者の声が聞こえてこないので、そうした様式性はいっそう際立って見えるわけだ。

年老いたヨタカが出てくるが、これは商売道具の筵を担いで歩き、いかにも日本風の商売女の風情を感じさせる。客ができるとその筵を河原かなんかに敷いて、その上でサービスするわけであろう。



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