壺齋散人の 映画探検
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エノケンの法界坊:斎藤寅次郎



斎藤寅次郎は日本の喜劇映画の草分けで、サイレント時代に夥しい数の喜劇映画を作った。その殆どは失われてしまったが、現存する作品などを見ると、アメリカのスラップスティックコメディを思わせるような軽妙なドタバタ喜劇といった趣向のものだったようだ。山田洋次の「キネマの天地」のなかで、斎藤寅次郎の演出ぶりの一端が紹介されているが、それを見る限り、かなり洒落た感覚の持ち主だったと思われる。

その斎藤がトーキー時代になって、エノケンと組んで作ったのが「エノケンの法界坊」だ。エノケンの持ち味は、だみ声で歌う声にあわせた大げさなジェスチャにあるから、ただのドタバタ喜劇ではないし、スラップスティックコメディとも一味違っている。斎藤はその辺を考慮に入れながら、エノケンらしさを発揮した洒落た喜劇を作ろうと意気込んだようである。

原作では、極悪非道の破戒僧法界坊が、永楽屋の娘おくみに横恋慕して、強姦しようとするところをおくみの母親おさくに殺されるというものだが、これではエノケンが浮かばれないと思ったのか、斎藤の演出では、法界坊は気のいい善人ということになっていて、おくみが愛する男と結ばれるのを喜ぶというふうに変えた。映画の中でも法界坊は殺されて死ぬのだが、殺したのはおくみの母親ではなく、全く別の男ということになっている。その男に向かってエノケンは、「よくも俺を殺したな」と毒づくのだが、殺されてからそんなふうにいきがっても、無駄というものだろう。

原作・映画を通じて「鯉魚の一軸」というものが鍵となっている。お家復興がそれにかかっているという設定は、「百万両の壺」と同じような趣旨だ。それを映画の中の登場人物が揃って「いちじく」と発音する。それがなかなか聞きなれないので、事情に疎い観客には「無花果」と受け取れる。何故無花果がお家復興の重大な手がかりになるのか、観客は割り切れぬ気持を抱きながら映画を見続けることになりかねない。

この映画の中のエノケンは、「ちゃっきり金太」や「孫悟空」と比べて運動量が少ないように見える。そのかわり歌のほうは健在だ。前の二者と違ってミュージカルを標榜しているわけではないが、要所要所でエノケンが歌うと、映画が一層華やかになる。ラストシーンでは、おくみの祝儀の席に現れた法界坊が、ワグナーの結婚行進曲のメロディにあわせて謡曲「高砂」の一節を披露する、といった具合だ。

法界坊のエノケンがおくみをくどく殺し文句に「ざくろのような唇」というのを連発するが、こんな言葉は今では死語と言ってよいのではないか。むしろマイナスイメージを喚起させる言葉だといってよい。その証拠に若い娘に向かってそんなことを言ったら、例外なく反発されるだろう。いまどき若い女性の唇をざくろに喩えるなんて、ナンセンスだわ、と言われるに違いない。





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