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内田吐夢のサスペンス映画「飢餓海峡」:水上勉の小説を映画化



内田吐夢は日本映画の黎明期を担った監督の一人で、溝口健二などとともに、リアリズム映画の確立に功績があった。映画にリアリズムを適用することで、単なる娯楽を超えた、芸術としての可能性を広げたわけである。戦前の作品には「土」などがあり、戦後は主に時代劇を作っていたが、1964年に作った「飢餓海峡」は晩年の傑作というにとどまらず、彼の集大成ともいえる作品になった。

水上勉の同名の小説を原作とするこの映画は、殺人事件の解明をめぐる一種のサスペンスドラマだが、単なるサスペンスではなく、そこに時代背景や人間の生きざまについての確かな視線があることで、一本筋の通った作品になっている。全体は3時間を超える大作だが、時間の長さを感じさせないほど、うまくできている。それには三国連太郎と左幸子を中心にした俳優たちの演技の巧みさもあるが、映画に筋が通っていることが、観客を飽きさせない原因だと思う。

映画は大きくいって前後二つの物語からなる。前半では、北海道で二つの事件が起こり、それについて地元の刑事である弓坂(伴淳三郎)が捜査に乗り出す。その二つの事件のうちの一つは、強盗殺人と放火。この放火によって小さな町の8割が焼失した。もう一つは、青函連絡船の沈没事故にともない、生存者の救出と遺体の収容が行なわれた際に、二人の身元不明の遺体がうちあげられたというもの。弓坂は、この二人の遺体の状態から、殺人事件であると確信し、捜査を始めるのである。

この二つの事件に深いかかわりを持っているのが、三国連太郎演じる犬飼という男だ。犬飼は網走刑務所から出所した二人の刑余者と知り合って行動を共にし、強盗殺人事件に関与したあげく、この二人を船の上で殺して、単独で逃避行を続ける。その逃亡の途中巡り合った娼婦杉戸八重(左幸子)と一夜を共にするが、その女の境遇に同情したらしく、別れ際に大金を与える。その金を貰った八重は、その恩をいつまでも忘れず、再び巡り合って心から例をいいたいという気持を張り合いにして生き続ける。

後半は二人が別れてから10年後という設定で、犬飼は樽見京一郎という名で、舞鶴の成功した事業家ということになっている。ふとしたきっかけで犬飼の近況を知った八重が、舞鶴に犬飼を訪ねたところ、自分の過去が表に出ることを畏れた犬飼によって殺されてしまう。その事件を巡って、今度は高倉健演じる地元の刑事が捜査に乗りだし、ついには弓坂(伴淳三郎)の協力を得ながら、次第に犬飼を追い詰めていく。追い詰められた犬飼は、自分に味方してくれたただ一人の女を殺してしまった自責の念もあって、捜査に協力すると申し出て警察を油断させた隙をついて、青函連絡船の上から投身自殺をする。

ざっとこんな粗筋で、不幸な男女を描いた作品ともいえるのだが、男の方は、どんな人間をも信じられない不幸な男として描かれ、女のほうはそんな男のことでも、生涯をかけて追い求めるような純粋な女として描かれている。つまり一夜の交わりを除いては接点を持てなかった不幸な男女なのだ。それゆえ女の方は、男を信じながら、その手によって絞殺されてしまうのであるし、男の方は、女の情愛をどう受け取ったらよいかわからずに、それを自分にとっての脅威とみなし、絞め殺してしまうのである。

二人の出会いは情感たっぷりに描かれている。船で逃亡して下北半島に上陸した犬飼は、途中恐山でイタコの霊媒を見たりしながら、偶然通りがかった軽便鉄道に飛び乗るのだが、そこに、地元の貧しい人々とともに八重も乗っていた。犬飼が隣の老婆に親切にしているのを見た八重は犬飼に興味を示し、自分の食っていた弁当のおにぎりの一部をわけてやる。空腹だった犬飼が、自分の食う様子をうらやましそうな表情でみているので、つい同情したのである。

バスを乗り継いで大湊にやってきた二人は、八重のいる女郎屋に入る。ここで二人は床を共にするのだが、その際に八重が身の上話を始める。母親が病気になり、その借金のかたに女郎になったこと、今日はその母親の言葉を恐山のイタコを通じて聞いてきたのだが、母親は「帰る道ないぞ」といっていた、というような話である。

これに同情したのかどうか、犬飼は女との別れ際に、強盗殺人で得た金の一部を与えてやる。この金で女のは借金を返し、父親の病気も治してやる。映画ではその父親を湯の川温泉で療治させてやるシーンが出てくる。父娘が裸のまま同じ湯につかり、これからの身の末を話し合う。娘は東京に出て行きたいというのだが、それは東京で堅気として出直したいという気持と、東京ならもしかして犬飼の消息がつかめるかも知れないと思ったからだろう。

そんな八重のもとを、犬飼の消息を追っている弓坂が訪ねて来るが、八重は本能的に犬飼をかばう。その言葉に騙されて、弓坂の捜査は行き詰まるのだ。

その後東京へ出て行った八重は、一杯飲み屋で女中をして暮らす。飲み屋は闇市の中にある。その闇市の風俗が画面に映し出される。飲み屋には闇市に寄生するチンピラどもが入りびたり、八重は身の危険まで感じる。そのうち、飲み屋の中でチンピラ同士が大ゲンカしたのを見て怖くなった八重は、この飲み屋を出て亀戸の女郎屋に身を寄せる決意をする。結局女が一人で生きていくには、身を売るしかないのだという、なんともいえないメッセージが、込められているのを感じさせられるのだ。

だが、女郎としての八重の生活はすさんだものとしては描かれていない。八重は、いつの日にか犬飼と再会し、あの時の礼を改めて言うことだけを生きがいに、日々を暮らしているのだ。そんな八重は、あの女郎屋の中で切ってやった犬飼の爪を唯一の形見として肌身離さずもっていて、夜々それを取り出しては身に擦り付け、犬飼の肌のぬくもりを懐かしむのだ。そして、「こうしていられるのもみんなあんたのおかげです、恩にきています、是非会ってお礼が言いたい」と言い続けるのだ。その真心が、見る者を切ない気持ちにさせる。

別れてから10年後、犬飼の近況が新聞に載った。舞鶴の実業家樽見京一郎氏が刑余者の福祉のために3000万円を寄付したという記事だった。それを見た八重は、この男が犬飼であるような気がして、舞鶴まで訪ねに行く。出て来た男は、自分は犬飼などではないと白を切るのだが、八重はなかなか納得できない。そのうちに男の手の指に古傷の跡を発見して、これが犬飼であるとの確信を強める。ことそこに至って男も自分が犬飼であることを認める。感極まった八重は犬飼の胸に飛び込むが、犬飼は抱きしめると見せて、八重を絞め殺してしまうのである。

その後は、高倉健の出番だ。地元の刑事である高倉健が、署長の藤田勇と共に知恵を絞り、伴淳三郎の協力も得て、次第に犬飼を追い詰めていく。最初は理屈をこねて罪を認めようとしなかった犬飼に謝罪の意識を持たせたのは、伴淳三郎の決定的な一言だった。あの女は、この世でただひとりお前の味方をしてくれた女だ、生きていてもお前を売るようなことは決してしなかったはずだ、そのたったひとりの味方をお前は殺してしまったんだ」

この言葉に乱れた犬飼は、伴淳と一緒に北海道に連れて行ってくれと哀願する。捜査の進展を期待した署長がその願いを受け入れる。こうして、高倉健と伴淳三郎らの一行が、犬飼を連れて北海道に向かい、青函連絡船の上から、死んだ八重の冥福を祈る。その最中に、手錠を外してもらった犬飼が、手向けの花を海に投げ込むと見せかけて、自分も飛び込んでしまうのである。

なお、この映画は三時間を超える大作だが、1964年に劇場で上映された時には、二時間半に短縮された。長すぎては興行にマイナスになるからと、映画会社から言われたからだ。内田は、前半と後半の境目である部分、すなわち八重が東京へ出てきて闇市の飲み屋で働いたり、亀戸の女郎屋に身を寄せる部分をカットすることで、長さを短縮した。しかし、この場面をカットしてしまっては、八重の犬飼に対する純粋な思いが伝わらなくなってしまうし、この映画のもう一つの見どころである、戦後の東京の風俗を描いた部分が台無しになる。つまり、ただのサスペンス映画になってしまうのだ、それでも、この映画が高い評価を受けたのは、サスペンスドラマとしても、見どころが多かったからなのだろう。実際原作の小説は、これ以降も、何回か映画化されたほか、テレビドラマにもなっている。それらは、サスペンスとしての筋の面白さのうえに成り立っているのである。



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