壺齋散人の 映画探検
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無法松の一生:稲垣浩の世界



「無法松の一生」は、映画化だけでも四回、テレビドラマや民衆芸能の題材として数限りなく取り上げられたほか、浪花節や歌謡曲でも歌われた。ということは、一時期の日本人たちから、こよなく愛されたということだ。一時期、というのは他でもない、今どきの若いものには受けないだろうという意味だ。そのほか色々な意味で、日本史の一時期を画する物語だといえる。

原作となった小説「富島松五郎の生涯」が発表されたのは昭和15年、その3年後の昭和18年に稲垣浩によってはじめて映画化された。一代の名優坂東妻三郎が無法松を演じたこの映画は、当時の日本人に熱狂的に迎えられ、その後の無法松物の原イメージともいうべきものを作り上げた。稲垣自身戦後この作品をリメークしているが、その内容は戦前の作品をほぼ忠実に再現したものであった。ひとつ違うところは、戦前の作品の中の検閲のために削除された部分を、再現したという点だった。

昭和18年と言えば、太平洋戦争も末期に近くなり、日本にとって旗色が悪くなっていたときだ。そんなときにこの作品が銀幕で上映されたわけだが、それは、しがない車引きの片恋物語であった。当時映画といえば、戦意高揚を目的とした御用映画ばかりで、どれも兵隊さんのカラ元気が強調されていたものだったが、そんな時勢に、しがない車引きの切ない恋の片思いが人々の胸を打った。なぜ、そんなことが起きたのか。

ひとつには、板妻の迫真の演技が人々の胸を打ったということもあろう。その板妻が演じた車引きは、無学文盲でその日暮らしをしているような男だが、性格は至って素直で、人なつこい。博奕をうったり喧嘩をしたりもするが、曲がったことが大嫌いで、人間の真心を大事にする。そしてその人間の真心から、ある女性に恋をしてしまうが、それは実りようのない恋だった。なぜなら、恋した相手は帝国軍人の妻、自分はしがない車引き、二人の間には、何重にも隔てられた距離があるからだ。

こんなわけで、これは近松が描いたところの、封建時代の恋の延長のようなところがある。身分違いの者同士の間では恋は成り立たない、ということを近松はしつこく描いたわけだが、それと同じようなことが、この映画の中でも描かれている。その点でこの映画は、日本社会の封建的な束縛がまだ意味を持っていた時代の名残のようなものだと言える。日本史の一時期を画するといったのは、そのことだ。その最後の名残を目の前にして、当時の日本人は過ぎゆくものへの哀惜の情に深く打たれたのではないか。

さて、巨匠と言われた稲垣浩が、これを二度も作ったことには、この作品に対する彼のこだわりがあったのだと思われる。この作品には、日本人の胸に響くような日本的な美があるとともに、無法松の生きざまには、ひとり日本人のみならず世界の人々を感動せしむるようなものがある、そう考えたのだろう。でなければ、同じテーマを繰り返し作ったりはしないはずだ。そしてそんな稲垣の思い入れは報われた。三船敏郎が無法松を演じたリメーク版は、ヴェネチア国際映画賞のグランプリに輝いたのである。

三船のリメーク版も素晴らしいが、それより板妻の演じたオリジナル版のほうを評価する評論家もいる。佐藤忠男などは、オリジナル版の「無法松の一生」は、日本映画の最高傑作10本のうちに、文句なく入るはずだとまで言っている。

筆者が見たのはリメーク版の方だ。三船敏郎が無法松を演じ、高峰秀子が吉岡小太郎の未亡人を演じている。稲垣は、オリジナル版のうち検閲で削られた部分を付け加えたほかは、ほとんどオリジナル版を再現するようなかたちで映画作りをしている。板妻の持っていた荒々しい中に人間らしい優しさを感じさせるような雰囲気を三船もまた持っていると考えたのだろう。でなければ、まったく同じようには作れない。三船もそれに応えて、渾身の演技をしている。

ところで、オリジナル版のどこが削られたかというと、無法松が恋心を打ち明ける場面だという。帝国軍人の未亡人に車夫風情が恋をするとはけしからぬ、そんなことは順風美俗に悖る許されぬことだ、という理由からだったらしい。まさしく近松や西鶴の世界と異ならぬ理屈がまかり通っていたわけである。

また、戦後GHQからもクレームが出た。中学生と師範学校生が衝突する場面で、生徒たちが軍歌を歌う場面が出てくるが、これが軍国主義を煽るからという理由であった。

ともあれ稲垣は、リメーク版ではこのような検閲やクレームをすべてなしにして、自分の作りたいように作ることが出来た。その結果が、世界的な評価につながったわけである。

映画自体には、(劇的という意味での)筋らしいものはほとんどないといってよい。ふとしたことから軍人吉岡小太郎(芥川也寸志)と知りあった人力車夫の松五郎(三船敏郎)が、吉岡が急死した後、未亡人(高峰秀子)の良子から息子の養育に力を貸してほしいと頼まれ、以後なにかとこの母子に寄り添って子どもの成長に気を配る。その甲斐あって子どもは立派に成長していき、母親からも自立するようになり、松五郎にも目を向けぬようになる。そうなると、松五郎には自分の生きている意味がわからなくなる。

そこで松五郎には、心の底からやるせない感情が湧き上がってきた。それは吉岡未亡人に対する恋心なのであった。今まで子どもに注いでいたエネルギーが、とりあえず無用となって、別のエネルギーが顔をもたげてきたのだ。松五郎は、そのエネルギーの拠って来る所以である良子への恋心を、当の良子に打ち明けたうえで、自分は汚い人間だと懺悔し、以後あなたの前には現れないと誓う。こうして生きがいを失った松五郎は酒におぼれるようになり、挙句の果ては酒に酔ったまま心臓マヒで死んでしまう、というものである。

最大の見せどころは、松五郎が小倉の祇園太鼓を叩くシーンだ。どの映画でも、またどの舞台でもこれは最大の見せ場、また泣かせ場となっている。息子が連れてきた恩師が、小倉の祭を見物しながら祇園太鼓を聞きたいと言うのだが、いまでは本物の祇園太鼓を打てるものは、松五郎を除いては誰もいない。そこで松五郎は息子の顔を立ててやろうと思い、祇園太鼓を、精魂を込めて叩くというものだ。三船敏郎演じる無法松がもろ肌脱いで太鼓を打つ、その姿には誰でも男の色気を感じるに違いない。

なお、この映画の中で笠智衆が演じるヤクザの親分が、なかなか面白いことを言う。この親分は無法松の起こした騒ぎの仲裁に入るのだが、その騒ぎとは、無法松が芝居小屋に入ろうとして木戸番に止められたことに腹を立て、場内で嫌がらせをしたということだった。無法松から言えば、人力車夫がタダで芝居を見られるというのは、小倉のしきたりだ。それを一方的に破られたので、自分は仕返しをしただけだ。それに対して親分は、お前の言うことには一理あるが、しかし関係のない素人衆に迷惑をかけたのは許されない、そういって無法松をさとすと、無法松は恐れ入って降参する。こうした場面を見ると、稲垣浩という人は、昔の仁侠道にも一定の理解を持っていたのだろうと、思い至る。

笠智衆演じるこの親分は、松五郎の通夜にも立ち会って、松五郎の日頃からの真心を、未亡人に語って聞かせる。それを聞いた未亡人が、涙を浮かべながら、松五郎の真心に感謝をする。そのことで松五郎の霊は慰められたに違いない。

映画のフィナーレで出て来た笠智衆の顔から、こんな救いのようなものを、当時の観客は感じとったに違いない。ともあれ、これは古き良き時代に生きた、一人の善良な人間の生きざまと、その生き様がもった意義を、しみじみと感じさせてくれる映画だ。




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