壺齋散人の 映画探検
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人情紙風船:山中貞雄の世話物時代劇



山中貞雄は1930年代に時代劇ばかりを作った人で、丹下左膳や河内山宗俊などを主人公にした荒唐無稽な活劇が得意だった。そんな山中にとって、「人情紙風船」は一風変わった作品だった。時代劇なのに派手なチャンバラシーンがなく、俳優たちがしゃべっている言葉も現代語とかわらない。言ってみれば、ちょん髷をつけた男たちが繰り広げる現代劇といった風情なのだ。山中は、この映画が公開されたその日に召集され、翌年の秋に、中国戦線で戦病死した。まだ28歳の若さだった。

この映画は、人気歌舞伎「髪結新三」を下敷きにしている。これは歌舞伎のほか、落語や講談でも語られたので、当時の民衆にとっては馴染みの深い話だった。だから、それをそっくりそのまま映画化しても、それなりの出来になったかもしれないが、山中はそのままの形では満足せず、いくつか新しい要素を加えて見せた。その一つは、長屋を舞台に繰り広げられる庶民の生活感情を描くことであり、もう一つは、しがない浪人の就職活動を絡ませることだった。

髪結新三の筋書自体は単純そのものだ。髪結で渡世している小悪党が、得意先の店の娘を誘拐して、身代金をゆすり取るというもので、これ自体では何の風情も湧いてこないものを、芸の所作やいきなせりふ回しでカバーして、観客の喝さいをとったというものである。だから、これをそのまま映画に移し替えたら、あるいは惨憺たる出来になったかもしれない。それがそうならなかったのは、上述したような工夫があったからだ。

舞台となるのは、おそらく江戸深川あたりにある長屋街である。狭い路地を挟んで、長屋が相対し、路次の両側には木戸がある。夜中や緊急事態が発生した時には、住民はこの木戸から外へ出ることを許されない。長屋の中の戸割りは、今の感覚からは想像できないくらい狭い。六畳一間に玄関兼台所仕事用の土間がついているだけだ。だから、表から裏まで一目で見通せる。仕切り壁は薄く、隣の話し声が筒抜けだ。こうした長屋の作りは、東京江東区の深川江戸資料館に実物大で復元展示されているから、それを見ると実感が湧く。

この長屋に住んでいる大勢の庶民の生きざまが、この映画の一つのポイントだ。住民たちはみなその日暮らしで、明日へ希望をつなげない者ばかりだが、決していじけているわけではない。貧しければ貧しいなりの生き方があると言わんばかりに、生きることを楽しんでいる。なかには、生きることが辛くなって、自分で自分の命を殺めるようなものがいないわけではないが、そういうものは武士崩れの気取った輩で、自分の境遇をそのまま受け入れることができないばかりに、この世で生きてはいけないのだと、批判される。批判するのは無論、長屋の住民たちである。侍のくせに、腹を切らずに首を吊った、といって彼らは自殺した武士のことを批判するわけなのだ。しかし、彼らのいいところは、批判するだけではなく、死んだ者のために通夜のどんちゃん騒ぎをして、霊送りをしてやることだ。この映画は、その霊送りのどんちゃん騒ぎのシーンから始まるというわけなのだ。

この映画には、生きている武士も出てくる。というか、表向きはその武士が映画の主役なのである。題名にある紙風船というのは、この武士がしている内職をあらわしているのだ。その武士(河原崎長十郎)は、事情あっていまは浪人の身だが、再び仕官出来るようにと運動している。この武士が働きかけているのは、昔仕官していた藩の重役だ。父親がその重役宛に残した手紙を読んでいただいて、是非自分の再就職が実現できるように助力願いたい、そう武士は思うのだが、そんな武士を重役はうるさがって、まともに相手にしない。

そんな武士と髪結新三(中村翫右衛門)とは同じ長屋に暮らしているのだが、その二人の間に奇妙な友情が芽生える。そのきっかけは、ヤクザに追われる髪結を武士が匿ってやったことだった。それからしばらくして、武士がヤクザたちに襲われているところを髪結が助けてやる。こうして何となく知り合いになった頃、髪結が大商人の娘お駒(霧立のぼる)を誘拐してきて、武士のところに匿ってもらう。このお駒という娘は、さる大名の家老のもとに嫁入りすることになっているが、商人の娘では縁談が成り立たないと言うので、ある高官の養女となって、そこから嫁入りする手配になっていた。その高官というのが、武士があてにしていた重役だったのである。

こうして、髪結の方は商人から金を巻き上げることに成功し、武士の方は、自分をコケにした重役に一矢報いることができて、ふたりとも溜飲を下げたというのが、この映画のポイントなのだ。

だが、映画はそれだけでは終わらない。髪結新三のほうは、ヤクザの親分から決闘を申し込まれる。この親分は、新三にコケにされて、頭に血が上っているというわけなのだ。この場面は原作でも出てくる。原作では、いざ決闘するにあたって二人がタンカを切りあうところで終わっているが、映画でもそこで終わらせている。チャンバラシーンが得意な山中にしては、抑えた演出だといえよう。

一方、武士の方は、妻によって殺され、無理心中という結末を迎える。妻は、夫があまりにも不甲斐ないのに絶望して、生きて行く望みを失ってしまったのだ。それにしても、この武士は、実に情けない男というふうに描かれている。クビになった藩(会社)に再び仕官(就職)したいという願いを持っているが、その願いを自分の知恵で実現しようという能力も気力もない。父親が残してくれた推薦状だけが唯一の手がかりだが、そんな推薦状など、何の役にも立たないのだ。そんな役立たずのワラにすがったまま、浮世の流れに流されていく。自分の力でその流れから脱出しようとするという意気込みがない。だから妻にも愛想をつかされて、挙句の果てはこの世から退出する羽目におちいるわけなのだ。

この映画の最大の見どころは、冒頭部分で出てくるどんちゃん騒ぎの場面だろう。ありあわせのものを楽器代わりにつかって、皆で囃し合う。ひょうきん者が鉢巻頭を振り回しながらひょっとこ踊りを踊る。法華の太鼓までが楽器となり、御題目が音楽となる。その騒ぎぶりたるや、昔の庶民のエネルギーを十分に感じさせるものだ。





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