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別離:アスガル・ファルハーディー



アスガル・ファルハーディーによる2011年のイラン映画「別離」は、イラン人の日常を信仰にからめながら描いたものだ。信仰とはほとんど無縁な小生のような日本人にとって、実にショッキングな内容のものであった。この映画を見ると、イラン人というのは、生活のあらゆる部面で信仰に向き合っており、その信仰は貧しい庶民の間でより強固であって、それが故に、金や知識のある連中よりも不利な境遇に置かれていると伝わって来る。不利どころか、場合によっては、徹底的なダメージを蒙るのであるが、そのダメージをイランの貧しい人びとは、神の試練として受け止めて、なんら悔いることがないようなのである。

題名の「別離」とは、ある一家の離婚騒ぎとそれに伴う家族解体のことをいう。その家族解体の話に、たまたま家政婦としてやってきた一人の女が、雇い主である男からひどい目にあわされ、妊娠していた子供を流産したあげくに、その男からは泥棒呼ばわりされて、散々な目に合わされる。見ていて、情けなくなるほど、非人間的な筋書きになっている。その非人間的な行いを、雇い主の男はいささかも反省する様子はなく、自分より弱い立場の家政婦を、とことん攻撃するのである。自分をまずい立場に追いやったという理由で。

この男は目下、妻との間で別れ話が進行しており、家庭裁判所のようなところにも申し立てているのだが、互いに自分の主張をゆずらない。別れることでは一致しているのだが、一人娘の親権をめぐって対立がとけないのだ。娘はとりあえず、父親と一緒に住むことを選ぶ。父親には、認知症になった父親つまり祖父がいて、その祖父の面倒を見てくれることを主な目的として、男は家政婦を雇うのだ。ところが家政婦は、子どもを連れて外出し、その間に拘束されていた祖父が危険な状態に陥る。そのことに激高した男は、家政婦を階段の踊り場から突き倒し、その結果家政婦は流産してしまうのだ。

家政婦の夫は、男を死罪で訴える。イランでは、19週間以降の胎児を死なせた場合には殺人罪に問われるのだ。そこで男は、なんとかして反論し、家政婦の言い分の矛盾をついて、責任を逃れようと躍起になる。焦点は、男が家政婦の妊娠を知っていたうえで突き飛ばしたかどうかだが、映画の進行の中で、男は家政婦の妊娠を知っていたということが明らかにされる。それでも男は、なんとか言い逃れをしようとする。

そうこうするうち妻の方が、夫の窮状はともかく、父親の不首尾でいやな思いをしている娘のために、相手側と示談をして、金で解決しようとする。話し合いはうまくいき、なにがしかの金でなかったことにするということになる。ところがそこに意外なことが起きる。男が家政婦に改めてアラーに誓ってほしいと言った時に、家政婦がパニックになるのだ。自分はアラーに誓って嘘をいうわけにはいかない。というのも、自分は流産の原因について確固とした自信がないからだ。実を言えば、その前日に車にはねられていた。その衝撃で、おなかの具合が悪くなったので、もしかしたら男に突き飛ばされた時には流産していたかもしれないというのだ。

女が車にはねられたのは、一時的に見えなくなった認知症の祖父を探しに外へ出かけた時のことだった。つまり家政婦は、どちらにしても、自分の仕事上で災難にあっているわけだ。だが、家政婦は、たしかな根拠もなく他人を罪に陥れることは、神に逆らう重大な罪だと思い込んで、示談そのものにも反対なのだ。そんなわけで、男はおそらく示談金の支払いなしに無罪放免となることができた。その男が最後には、娘の親権を妻と争う場面で映画は終るのである。

この簡単な筋書きからも、この映画が、いかに日本人の感覚とずれているか、わかろうというものだ。日本人なら、ここまでコケにされて、しかも自分一人で全事態の責任を背負うというような話は理解できない。しかしイラン人にとっては、それは必ずしも理解できないということではないようなのだ。

映画の中で、刑事裁判のシーンが出て来るが、イランの刑事裁判は、検事も弁護士もなく、法廷(ただの部屋に見える)における裁判官に、原告と被告が直接主張をぶつけるのだ。そのさまは、日本の徳川時代における大岡裁きを想起させる。イランではいまでも、このような裁判が行われているのか。その裁判はおそらく、徳川時代の日本の裁判が、儒教道徳をもとに裁断されたと同じように、イスラム法によって決せられるのだろう。




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