壺齋散人の 映画探検
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アスガル・ファルハディ「彼女が消えた浜辺」:浜辺に集う若者



2009年のイラン映画「彼女が消えた浜辺」は、アスガル・ファルハディの出世作となったもので、イラン人の生き方とか考え方を、広く世界に認識させる効果があったといわれる。その効果とは、イラン人は一般に想像されているような宗教的で敬虔な人々であって、またその分因習にとらわれているといったそれまでの見方が訂正されて、かなり世俗的であり、かつ自分本位でドライな人間関係を取り結んでいるという発見だったように思える。実際この映画の中に出て来る人々は、前作の「別離」に出て来る夫婦に負けず利己的で、また宗教意識をほとんど感じさせないのだ。「別離」でもそうだったが、この映画の中の女性たちは、スカーフこそ被ってはいるが、顔や肌を見せることを躊躇しないし、また男同様ドライブを楽しんでいる。そういう光景を見ると、今でも女性のドライブが制約されているサウディ・アラビアなどとは、かなり違うという印象を受ける。

映画の舞台は浜辺の廃屋である。浜辺というから、筆写などはペルシャ湾に面した海岸かなと思ったりもしたが、どうやらカスピ海に面したところらしい。カスピ海は、一応は湖ということになっているが、塩水の巨大な湖であって、海と異ならないらしい。そのカスピ海沿岸の小さな別荘地に、一群の男女が車に分乗してやってくる。その男女は、予約していた別荘が一泊しか使えないとわかり、いまは使われていない廃屋を、内部を自分たちで修理して、三日間そこで暮らすことにする。そのメンバーの中に、一組の男女がいるのだが、実はこの宿泊は、その男女を見合いさせることが目的だったのだ。しかし、その目的を、女性(エリ)は知らされていない。第一彼女にはフィアンセがいて、他の男との見合いなど全く考えられない状態なのだ。それを知りながら、長老格の男の妻(セピデー)が、勝手に見合いをセッティングしたというわけなのだ。見合いが盛んな日本でも、こういうやり方は通用しないと思うのだが、イランでは、女の意思を全く無視して見合い話が進行するのかと、思わせるようなセッティングである。

一方男(アーマド)のほうは、ドイツに住んでいる妻と離婚したばかりで、気安く話し合えるイラン人の女と結婚したがっている。セピデーはそんなアーマドの希望を忖度して、かれがイランにいる間に、結婚話を成立させたいと思っているのだ。しかし、そんな彼らのもとに、思わぬ試練が見舞う。エリが、子どもたちの面倒を見ている間に、一人の男の子が水に溺れ、一命はとりとめたものの、エリのほうは行方不明になってしまったのだ。前後の事情からして、彼女が溺れた子を助けようとして、自分自身が溺れてしまったことはほぼ間違いないと思われた。

救助隊や警察の動きもむなしく、エリの行方は知れない。遺体が発見されないのだ。そこで一行は、彼女を無理に誘った手前もあり、どうしたらよいか迷う。彼女には、母親の他にフィアンセがいることがわかるが、なにせ、彼女を子どもが通っている保育園の保母としてしか認識しておらず、正式な名前さえ知らない。そんな状態で、彼女が残していった携帯電話を活用したりして、何とか彼女の身寄りとか、相談できる相手を探そうとする。ところが、彼女にとって最も大事な存在のはずの母親との連絡を取ろうとはしない。また、警察に相談する気配も全く見せない。あくまでも、自分たちだけで、自分たちの都合のよいような解決が図られるように努力するのだ。そういう行動を見せられると、イラン人は、こういう場面で警察を全く頼っておらず、警察も民間人のことは無視しているというふうに伝わって来る。その辺は、アメリカ人の警察無視と似たところがある。警察の役目は権力の犬に徹することで、民間人相互のことについては、それが公安に影響を及ぼさない限り、無私してかかるというのが、アメリカ警察の姿勢であるが、イランもそれと同じなのだろう。

そうこうしているうち、メンバーのなかで、互いに責任をなすりあったり、あるいは悪いのは無断で消えたエリであって、自分たちは被害者なのだと言うような連中も出てくる。これには、見ていてあきれるほかはなかったが、イラン人のエゴセントリズムのあらわれなのかもしれない。こういう強烈なエゴセントリズムは、日本では、一部の特異な政治家を除けば、ほとんど見られないので、実に恐れ入った気持ちにさせられる。

最後は、フィアンセと連絡をとり、彼に説明をしたうえで、一件落着させようということになる。このフィエンセとは、エリは疎遠な感情を持っていたことがわかっており、そんな男と和解することが、なぜ一件落着につながるのか、どうもわからないところだが、イラン人は、トラブルが起きた時は、何らかの形でけじめをつければ、一件落着したと考える傾向があるようである。結局きちんとした和解が成立しないままに、エリの遺体が発見されて、物語が一応の結末を見る形になったところで、映画は終るのであるが、映画が終わっても、彼ら関係者の責任の取り方が終わったとは、到底言えないようなのである。

とにかく、この映画の中に出て来るイラン人の大人たちは、みな徹底して無責任である。子どもの世話を放棄して自分たちは遊びほうけ、不都合なことが起ると、責任を逃れようとばかり考える。そんな大人たちの無責任な姿を見て育つ子供たちも、きっと無責任な人間になるに違いない。そんなメッセージを残しながら終わるところに、この映画の独特なところを指摘できる。



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