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アスガル・ファルハディ「ある過去の行方」:イラン人の夫とフランス人の妻との離婚




アスガル・ファルハディは離婚のモチーフが好きと見えて、「別離」に続く作品「ある過去の行方」でも離婚を描いている。こちらは、イラン人の夫とフランス人の妻との離婚がテーマだ。この夫婦は、互いにエゴイストが結びついたらしく、自分たちの離婚によって周囲の人間が傷ついていることを意に介しない。その周囲の人間の中には、自分にとってかけがいない人も含まれるのだが、それらの人への人間的な配慮は、この元夫婦、とくに元妻には全く感じられない。「別離」で出て来た夫婦も、自分のことしか頭にないエゴイストの男女だったが、この映画の中の元夫婦は、それ以上にエゴイストである。そのエゴイストのうち、イラン人の男よりフランス人の女のほうがひどいエゴイストであることに、監督であるアスガル・ファルハディの意趣を読み取ることができよう。

ある男がイランからフランスへやって来る。かれの用件は、四年前に別居を始めたフランス人の妻と正式に離婚の手続きをすることだった。女は男を自分の住んでいる家に案内する。その家には、女の娘たちのほか、女の今の愛人とその息子とが住んでいる。イラン人の男は、わけのよくわからぬまま、そうした人間たちと同居する羽目になる。その間に、そこに住んでいた人々の人間関係の不自然さに気づかされるようになる。

まず、妻のマリーとその娘のリュシーとがうまくいっていない。リュシーは母親が新しい男と結婚するのが面白くないのだろうと男アーマドは思う。リュシーは、マリーの最初の夫の子であるが、母親のマリーが二番目の夫を捨てて三番目の夫を持とうとしていることが我慢できないようなのだ。そこで母親のマリーにことあるごとに反発し、そのたびにアーマドを驚かす。

一方、マリーの新しい愛人であるサミールは、これもまた名前や風貌からしてイラン人らしいのだが、妻がいるにかかわらずマリーと不倫したということになっている。そしてマリーの家に住みついているわけだが、その息子は、どういうわけかマリーになついている。マリーの下の娘レアとも仲が良い。

アーマドは居心地の悪さを感じながらマリーの家で暮らし、パリに出て離婚手続きをしながらも、マリーの一家の様子を観察する。そのうち、リュシーから意外な告白を受ける。サミールの妻は、自殺未遂事件を起こして、それ以来植物状態に陥ってしまったのだが、その原因は、サミールとマリーの不倫にあったというのだ。そんな不倫をして一人の女を自殺未遂に追いやった母親たちを、自分は許せないという。

この思いがけない告白がきっかけになって、アーマドはマリーと娘の母子関係とかマリーとサミールとの関係にまで巻き込まれていく。その過程で、マリーの身勝手さに改めて呆れかえると共に、マリーの愛人サミールも、妻への自責の念に責められるようになる。こうしてマリーとサミールとは、二人にとっての子供を妊娠しているにかかわらず、破局を迎え、マリーとアーマドも晴れて離婚できることとなる。しかし当然のことながら、マリーには明るい未来はない。彼女は、元の夫を最終的に失ったばかりでなく、新しい愛人も失うこととなったのだ。

それにしても、ことの発端はマリーがわざわざ元の夫を自分の家に入れたことだ。そんなことをしなくとも、離婚手続きはできる。そうしていたら、淡々と物事が済んだであろう。それをわざわざ元の夫を家に入れ、自分の新しい愛人をはじめ、自分の家族と一緒にさせたのは、なにか特別な理由があったからにすぎない。それは、彼女がアーマドへの未練を捨てきれなかったからではないか、その未練をサミールによって晴らしていたが、そのサミールをも失う羽目になったのは、彼女の中途半端な気持ちからおこったことなのではないか、そんなふうに感じさせながら映画は終るのである。

こんな具合でこの映画に描かれた人間関係は、我々日本人にはなかなか理解できないものだ。「別離」では、イラン人の特別な宗教感情も描かれており、それが我々日本人にはとくにわかりづらい部分として映ったのだが、この映画は、宗教感情が出てこないかぎりで、わかりづらさが弱まっているかといえば、かならずしもそうではない。




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