壺齋散人の 映画探検
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アッバス・キアロスタミ「風が吹くまま」:イランの農村地帯における日常



アッバス・キアロスタミの1999年の映画「風が吹くまま」は、イランの農村地帯における日常を淡々と描いたものである。例によって寡黙な映画なので、何が描かれているのか、なかなか明らかにならないのであるが、そのうち、この映画に出て来る連中はテレビ制作かなんかの目的で地方の村落迄やってきたのだが、その目的は、この村落で行われるユニークな葬式を取材することだとわかって来る。ところが葬式が出るために必要な死人がなかなか出ない。彼らは、今にも死にそうな老女がいると聞いてこの村落まではるばるやって来たのだが、その老女が意外と元気で、なかなか死ぬ気配がないのだ。そこでやってきたスタッフたちは、とりあえず老女が死ぬのを待つことにするのだが、待ちくたびれてスタッフは解散し、監督が途方にくれているところに、やっと老女が死ぬというわけなのである。そんなシニカルな筋書きに沿って、このテレビ映画監督の目に映った村落の日常が淡々と描かれていくわけである。

映画はそのスタッフ数名が車に同乗してイラン北部の農村地帯の村落をめざすところから始まる。彼らは村の手前で一人の少年の出迎えを受ける。この少年が、彼らが死ぬことを当てにしている老女の孫なのだ。彼らはその少年の家族が所有している家屋の一角に居候する。ここで三日もいれば老女が死に、葬式が出されるだろうと踏んでいるのだ。そこで監督は老女の具合を見にいくが、老女は食欲もあり、まだ死ぬ気配はない。どうなっているのかと、監督はいぶかるが、少年によれば老女は元気だという。その監督に頻繁に電話がかかってくる。老女の情報を監督に伝えた人物からだ。しかし村落のなかでは電話がうまく通じない。そこで車を飛ばして丘の上に行き、そこで電話をする。この電話はかなり頻繁にかかってくるので、そのたびに監督は車を飛ばして丘の上に駆け上がらねばならないのだ。日本なら、丘の上はかえって電波が届かない場合が多いのであるが、イランは逆らしい。

当初予定していた三日たっても老女は死なない。そこで彼らは引きつづき待つことにするが、二週間たっても死なないどころか、これから先も当分死ぬ様子はないようである。それでも監督はあきらめないで待ち続けることにするのだが、その間にこの村落に流れている時間とか、その時間のなかで繰り広げられる村落の人びとの日常を観察する。映画の大部分は、監督の目に映った村落の日常を映し出すことからなっているのである。その辺は、物語展開よりも、人間の生きざまに焦点を当てて映画作りを行うキアロスタミの面目がよく出ている。

待機期間に男はさまざまな体験をする。子沢山な女との会話、老女の孫である少年とのやりとり、電話をするために丘の上に登るたびに、そこで穴を掘っている男との出会いがあるのだが、その男の妻子を訪ねてミルクを絞ってもらったり、また近所のカフェの女将さんからミルクをサービスしてもらったりといったこと。その女将さんは女上位のつわもので、亭主と夫婦喧嘩したあげく、亭主を叩きだしてしまうのだ。体験のハイライトは、丘の上で穴を掘っていた男が、穴が崩れて生き埋めになってしまうところに遭遇したことだ。男はびっくりして車を走らせ、人々の救援を求める。その結果男はなんとか救出され、命に別条がないとわかる。その男を診療した医者を、監督が老女のもとに連れて行き、具合を見てもらうのだが、この医者も老女は当分死なないだろうと太鼓判を押すのだ。

こんな状態に嫌気をさしたスタッフの仲間たちは、監督を置きざりにして消えてしまう。一人残された監督は、仕方なく自分も引き上げる気になるのだが、ちょうどその時に、老女が突然死ぬのである。しかし、スタッフ仲間も制作用資材もないとあって、その葬式の様子をテレビカメラに捉えることができない。そこで監督は持参のカメラで、葬式に集まって来る女たちを写すことで満足するのだ。

こんな具合でこの映画は、地方の村落で暮らすイラン人の表情を淡々と映し出すことからなっていて、これを見れば、イラン人の生き方とか考え方の一端がのぞき知れるような具合に作られている。ドキュメンタリーというのではないが、かなりそれに近い雰囲気の映画である。登場する人々もおそらく、キアロスタミの他の映画同様、土地に住んでいる人々なのだろうと思う。



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