壺齋散人の 映画探検
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ユン・ジョンビン「許されざるもの」:韓国の兵役



「許されざる者」というタイトルからは、クリント・イーストウッドが1992年に作った映画が想起されるが、2005年の韓国映画「許されざるもの」は、それとは全く関係がない。イーストウッドの映画は、賞金目当てのガンマンたちを描いた西部劇だが、この映画は、韓国の兵役を描いている。

韓国は日本と違って兵役がある。徴兵年齢はまちまちらしいが、原則として生涯に一度は兵役に服さなければならない義務がある。その兵役を対象にして、主に兵営での兵士の生活ぶりに焦点を当てた作品だ。

日本では、兵営のうちの生活領域をかつて内務班と呼んだ。内務班については、野間宏の「真空地帯」を始め、戦記文学や戦争映画が取り上げてきたので、日本軍におけるその実態はよく知られている。あまりいいイメージはない。上下関係が厳格で、兵士一人ひとりの自由が制約され、しかも上官による新兵への暴力が蔓延しているといったイメージだ。

この映画の中の韓国の兵営も、日本のかつての兵営とよく似ているようだ。生活領域を日本語そのままに内務班と呼び、兵士同士の合言葉にも日本語が使われる。そういう場面を見ると、韓国の軍隊というのは、日本のかつての軍隊から随分影響されているというふうに受け取れる。日本の軍隊文化を、かなりな程度保存しているようなのだ。これは、韓国人の軍隊生活が、日本統治時代の日本軍でのあり方を引きずっているせいかもしれない。

日本の軍隊は、兵士個々人に対して抑圧的だった。それは日本の軍隊を合理的に運営するうえである程度の役割を果たした。日本人がもともと同調圧力になびく民族性をもっていて、それが軍隊のような集団生活を、それなりに円滑に機能させたからだと思う。

それに比べると、この映画で描かれた韓国の軍隊生活は、やはり抑圧的なのだが、その抑圧を受け入れられない兵士が沢山出て来る。そういう兵士は、軍人である前に人間たらんと欲するから、兵営の抑圧との間で軋轢を生ぜざるをえない。結構多くの兵士が軍隊の規律に懐疑的であり、したがって上官の不合理な行動には反発するのだ。

そういう反発シーンを見ていると、これでは軍隊としての規律は保てないのではないかと思わされる。アメリカ軍などは、兵士の個人主義を織り込んだうえで軍隊の規律をはかっているので、個人の自由と集団の規律とがなんとか折り合っているという。韓国軍の場合には、一方で軍隊の規律を至上命令としながら、それに向き合う個別の兵士が、それを当然のこととして受け入れられない。したがって、兵士個人の人間性と軍隊の集団的な目的とが調和できない。その結果、個人と集団との対立が生じる。その対立で個人が勝つことはあり得ないから、集団の圧力に耐えきれない兵士が、自殺に追いやられるという事態も出て来る。実際この映画の中では、二人の兵士が自殺するのである。

こういう映画を見ると、韓国軍は軟弱な軍隊だと思わせられる。個々の兵士が、集団としての軍隊と一体化した感情を持っていなければ、勇敢に戦うことなどできない。そう思わせられるのである。

なおこの映画は、二人の若い兵士を中心に展開していく。この二人は中学校の同級生ということになっている。そのうちの一人は兵長まで昇進する。その男のいる兵営に、もう一人が新兵としてやってくるという設定だ.新兵は軍隊の規律に同化できないで、周囲と摩擦をおこす。それを先輩格の兵がなにかとかばってやる。しかしかばいきれるものではない。そのうち、先輩格は除隊して、後輩のほうは一人で集団と立ち向かうこととなる。映画は、後輩の新兵時代の出来事を描くいっぽう、先輩の除隊後のことを平行して描く。したがって現在のなかに過去が紛れ込むという、入れ子状の作りになっている。彼らが生きている時代は、最初は別々に描かれるのだが、そのうち、二つの時間が融合し、一つのリニアな時間が流れるようになる。その時間のなかで、後輩である新兵は部下を自殺させ、自分自身も自殺するのである。何ともわかりづらい映画である。



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