壺齋散人の 映画探検 |
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サタジット・レイの1960年の映画「女神」は、ベンガル地方に生きる人々の宗教的な因習をテーマにした作品。ヒンドゥー文化への強い批判が込められているため、インドの保守的な人々の反発を招いたが、カンヌでは高く評価された。 ベンガルのある村に生きる豊かな階層の家族の生活が描かれる。若い夫婦を中心に、父親と兄の家族が同居しており、そのほか沢山の使用人が暮している。父親は因習的な人であり、息子のウマは現代的なセンスを持った人だ。ウマは英語をマスターして大都会で職を得たいと考えている。そのウマが、英語検定の受験のため大都市に出かけている間に、父親が妙な夢を見る。ウマの妻ドヤモイに女神カリが受肉して乗り移ったというのだ。 かくしてウマは、家族はじめ周囲の住民から女神としてあがめられる。彼女はまだ十七歳で、しっかりした考えをもっていないので、もしかしたら自分は本当に女神になったのではないかと思い込む、じっさい、死にかかっている子供を生き返らせたのだ。そのことで女神としての彼女の名声は近隣一体にひびきわたり、大勢の人々が礼拝にやってくる。 そんな事情を知ったウマはとりあえず帰郷し、妻にバカな真似はやめろとさとす。しかし妻のドヤモイは、自分は女神と思われているから、みんなの期待を裏切るわけにはいかないと応える。そうこうしているうちに、日頃かわいがっていた甥っ子が重い病気になる。父親は、その子を医者に見せる代わりに、ドヤモイの女神としての超能力に期待する。しかし子供はむなしく死んでしまう。そのことをウマは、迷信のせいだと告発する。父親が迷信に惑わされて孫の治療をおこなわず、あるりもしない女神の力にすがったために子供は死んだのだと。 甥の死を目にしたドヤモイは、さすがにまずかったとさとる。もし自分が偽物の女神だとわかったら、みなに殺されるかもしれない。そう思いつめて、ドヤモイは夫とともにコルコタに逃げる決意をする、というような内容だ。 カリという女神が、この映画に出てくるベンガルの人々の守護神ということになっている。そのカリが一人の女性として受肉する、という考えが、かれらベンガル人にはあるようである。中国人や日本人には、人間が生きたまま仏になるという(即身成仏の)思想があるが、その思想がインド人の受肉の思想の反映だと考えられなくもない。だから、他人事として笑い飛ばすわけにもいかぬかもしれぬ。 子供が生き返ったことを喜んだ土地の男が、ドヤモイに向かって女神をたたえる歌を歌う。その歌い方が、どこかお経の声明を想起させる。お経の起源なのかもしれぬ。 ドヤモイがこの家に嫁に来たのは、三年前というから、十四歳だったわけである。十四歳で結婚するのは、ちょっと早すぎるのではないか。 |
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