壺齋散人の 映画探検
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いつか晴れた日に:李安



李安の1995年の映画「いつか晴れた日に」は、ジェーン・オースチンの小説「分別と多感(Sense and sensibility)を映画化した作品。小説のタイトルがそのまま原題となっている。それを日本語版では「いつか晴れた日に」にしたわけだが、どういうわけかははっきりしない。

母親と三人の娘たちをめぐる話である。夫であり父親であり一家の柱である人が死んだ後、彼女らは住んでいた屋敷を追い出され、田舎のコテージで暮らすことになる。父親は死ぬ際に(先妻との間の)息子を呼び寄せ、屋敷はイギリスの法律に従ってお前に相続させるが、そのかわりに遺された母子の面倒をみるようにと遺言する。だが息子はその遺言を守らないで、母子を屋敷から追い出すのだ。それには息子の嫁の強い意志が働いていた。という具合に、イギリスの家族関係の独特な特徴を映画のテーマにしているところがこの映画のミソである。

それだけでは映画にはならないので、それに二人の娘の結婚話をからませる。長女は自分たちを追い出した義姉の兄弟と恋仲となり、次女はたまたま嵐の日に災難から助けあげてくれた青年に恋をする。しかし彼女らの恋は、簡単には成就しない。貧乏だからだ。もともと豪勢な暮らしに慣れていた彼女らは、いくら落ちぶれても卑屈にはなれない。しかし貧乏な境遇は、彼女らを恋に向って大胆にさせない。悶々としているうちに、意外な展開となって、彼女らは二人とも結婚に成功する、といったような内容だ。

イギリスの小説が原作で、舞台はイギリス、俳優たちもすべてイギリス人、といった具合で、全くのイギリス映画といってよい。それをなぜ台湾人の李安が監督したのか。おそらく招かれたのであろうが、台湾人にイギリス映画を作らせるほどイギリスは映画の人材が乏しいのか、よくわからぬところがある。

小生はイギリスの家族法には明るくないが、どうも日本同様長男が家を相続することになっているらしい。遺言よりも法律の規定のほうが優先するというふうに受け止めたが、それほどイギリス人は長子相続制にこだわっているのだろうか。そうなら女王が統治する国柄にあっていないのではないか、と思われる。

なお、この映画では、次女は教養深き女性として描かれている。彼女はその教養を思い人との間で、愛の懸け橋として披露する。披露されるのはシェイクスピアのソネット第116番である。恋の絆の強さを歌ったものだ。それを、小生の拙訳で紹介しておこう。

  真実の心と心が結ばれるにあたり
  障碍を介入させないようにしよう
  事情が変われば自分も変わり 相手次第で心を移す
  そんな愛は愛とはいえない

  愛とは不動の目印のようなもの
  嵐にあっても 決して揺るがない
  愛とは船を導く星のようなもの
  高さは測られようと その力は無際限

  愛は時の道化ではない 愛する人の唇や頬が
  時の大鎌によって刈り取られようとも
  愛は束の間の時の中で変わることなく
  最後の審判の日まで貫くものだ
    もしこれが間違いで 私も間違っているなら
    こんなことは書かないし 愛することもしないだろう




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