壺齋散人の 映画探検
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蔡明亮「楽日」



蔡明亮は1990年代から2000代にかけて活躍した台湾の映画作家だ。ユニークな作風で知られている。2003年に公開した「楽日(原題は<不散>)」は、セリフをほとんど省略している点で無言劇に近く、しかもモンタージュを全く無視するかのように、カメラの長回しを重ねることで成り立っている不思議な映画である。長回しは固定した視点から取られているので、観客はあたかも演劇の舞台を見ているような気持ちにさせられる。

ある映画館の閉館興業の様子が描かれている。閉館興業といっても、特別な仕掛けがあるわけではない。昔の映画を再上映するだけの話である。その映画がスクリーンに映し出される陰で、何人かの従業員の行動が写される。特に脚の悪い女と、なんのとりえもなさそうな男の行動に焦点があてられるが、別にかれらの行動が劇的だというわけではない。女は映画が終わって劇場が閉じられると自分の家に帰っていくのだし、男は経営者らしき老人から何か指示をされはするが、そのことに取り組む様子を見せるわけでもない。変わった客に変な興味を持って、一緒に便所までついていき、連れしょんをするくらいである。その客というのが、たばこを吸いながら延々と小便を垂れる。その長いことは、馬のションベンを見ているようである。

そんなわけで、ドラマ的な要素は一切ない。ドラマがないばかりか、セリフもない。セリフらしいものが聞こえてくるのは、上映中の古い映画の画面からなのである。ただし二度ばかり現実の人間が言葉をしゃべるシーンがある。一つは謎の客が、自分は日本人だという場面であり、もう一つは、二人の老人が、ロビーで会話をする場面である。その会話を通じて観客は、かれらがその映画を演じた俳優だったということを知らされるのである。

この映画の特徴を言うとすれば、やはり無言劇を通じて現代社会の意味を問うたというこだろうか。現代社会は無意味なことで充満しているので、別にとりたてて言葉を使って説明するには及ばない。言葉とは意味のあることを表現するものだが、現代社会には表現すべき意味が欠けていると言いたいかのようである。

長回しの手法は、溝口や小津など、日本映画の伝統を意識しているようである。謎の観客に「自分は日本人だ」とわざわざ言わせているのは、蔡明亮自身の日本へのこだわりが出ているのだと受けとめられぬでもない。

邦題の「楽日(らくび)」は、日本語で興業の最終日を現わす言葉で、この映画の雰囲気に適合していると思われる。原題の「不散」とは、解散するわけではないという意味。じっさいこの映画館は、永久に閉鎖されるではなく、一時的に閉鎖されるだけなのである。それを「暫停営業(日本語なら<臨時休業>)」という言葉であらわしていた。




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