壺齋散人の 映画探検
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ファティ・アキン「そして、私たちは愛に帰る」:
トルコ人とドイツ人との人間的な触れあい



ファティ・アキンは、出世作の「愛より強く」において、ドイツ社会に生きるトルコ人を描いたが、そこでのトルコ人たちはドイツ人との間で暖かい交流を持つことがなく、トルコ人だけで傷つき合って生きているような人たちだった。映画の中に出てくる人たちはすべてがトルコ人であって、ドイツ人は例外的に出てくるだけである。それもバスに乗り合わせたドイツ人がトルコ人に向かって、お前とは一緒にいたくないから下りろと罵るような具合である。ところが、この「そして、私たちは愛に帰る」では、トルコ人とドイツ人との人間的な触れあいが描かれている。そのことによって、映画としての味わいが一段と深くなった。

映画は二組のトルコ系親子と、一組のドイツ人親子との間の人間的な触れあいを描いている。二組のトルコ系親子の内、一組はトルコからドイツに出稼ぎに出てきて売春をしていた女とその娘であり、もう一組はその売春婦を金で身請けして妾にした老人とその息子である。老人は純粋に性的な動機から女を妾にするのだが、女のほうでは人間としての尊厳の感情が自分のそうした境遇を許さない。老人のいうとおりにはならないということだ。そこで怒った老人が妾を殺してしまう。そのことに息子は深い恥じらいの感情を覚える。

一方、妾の女には一人娘がいて、イスタンブルの大学で学生運動に従事していた。彼女は祖国での政治的迫害を逃れてドイツにやってきて、そこでドイツ人女学生と仲良くなる。彼女たちを結びつけたのは同性愛だったということになっている。そんな同性愛に夢中になるドイツ人女学生の母親は、娘の行く末に強い懸念を抱く。とりわけ妾の娘が本国に強制送還され、それを自分の娘が追いかけて行ってしまうに至って、母親の懸念は頂点に達する。

こういうような設定で、映画は三組の親子計六名をめぐる物語になっている。オムニバス風に三部形式をとっていて、第一部ではトルコ人の老人と娼婦との関係に焦点を当てて、老人が娼婦の妾を殺すまでが描かれる。老人がなぜ娼婦を殺したのか、娼婦は何故殺されなければならなかったのか、そこがこの部分の見所になるわけだが、かならずしも説得力のある展開にはなっていない。そのため、老人ははずみで妾を殺し、妾は無駄な死を死んだというような印象を、見ている者に与える。

第二部では、父親の犯罪を悔いた息子が、せめて息子としての償いをしようとイスタンブルへ行くことから始まる。そこで彼は父親が殺した娼婦の娘アイテンを探し出し、母親を殺した償いをしたいと考えるのだ。アイテンのほうは、学生運動に夢中になり、官憲からの迫害を逃れるために、ドイツに入国する。そこで彼女はドイツ人女学生のロッテと出会い、彼女と同棲するようになる。彼女たちを結びつけたのは同性愛だったということになっている。そこでこの部分の見所は、若い女同士の同性愛ということになるが、なぜ彼女らが強く惹かれ合ったか、これは普通の人にはなかなかわからない。ロッテの母親でさえ娘の同性愛に偏見をもっているようなので、観客にはいっそう、彼女らの結びつきの意味が伝わってこないのだ。

第二部のハイライトは、ロッテがアイテンを追ってイスタンブルまで出かけ、そこでふとした弾みから殺されるところだ。はずみとは言っても、半分以上は必然性を感じさせる。彼女はアイテンから拳銃の処置をゆだねられるのだが、その拳銃が不良少年に奪われた挙げ句に、その少年によって銃殺されてしまうのだ。少年が彼女を銃殺したのははずみからだということになっているが、拳銃を持っていなければそんなことにならなかったわけで、したがって彼女は撃たれるべくして撃たれたと言えなくもない。

第三部は、ロッテの母親が娘の死の謎を知ろうと思ってイスタンブルに出かけ、そこで老人の息子と出会ったり、ついにはアイテンと再会して娘が死んだ理由を聞かされるところを描く。ここで母親はどういうわけか寛大な気分になり、アイテンを許すばかりか、イスタンブルで娘の記憶にひたりながら生きていこうとまでする。作者のアキンはそのことを通じて、ドイツ人とトルコ人との和解を主張したかったのかもしれないが、観客としては釈然としない部分もあるところだ。

こんなわけで、三組の人間たち六人を結びつける最大の紐帯はアイテンとロッテと言うことが出来る。その二人が同性愛的な感情から互いを求め合う。彼女らが二人並んでいるところを見ると、肌が白いドイツ人のロッテと、浅黒いアイテンとの対比が強烈に映る。

また、トルコ人の生き方の特徴ともいえるものがうかがえるような気もする。トルコ人はドイツ人ほど理屈っぽくなれない、というような雰囲気が強く伝わってくる。その雰囲気がトルコ音楽のけだるい旋律に乗って漂ってくるように、とくに我々日本人のような第三者には、伝わってくるようになっているようである。

映画の最後は、どういうわけか、老人と息子の和解のようなものを描き出している。和解する気になったのは息子のほうだが、なぜそんな気分になったのか、画面からは伝わってこない。曖昧なまま終わってしまうのだ。



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