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ファティ・アキン「女は二度決断する」:ドイツ人社会の欺瞞ぶり



ファティ・アキンはトルコ系ドイツ人として、ドイツ社会に生きるトルコ人たちの生きづらさをテーマに取り上げて来た。その生きづらさは、ドイツ人のトルコ人に対する差別意識に根差していたものだが、ファティ・アキンはドイツ人を表立って批判することは避けて来た。トルコ人の生きづらさは、トルコ人自身に根差しているのだというような描き方をしてきたわけである。ところが、この「女は二度決断する」では、初めてドイツ人社会をストレートにやり玉にあげて、ドイツ人社会の欺瞞ぶりを強烈に批判した。しかもその批判を、差別されるトルコ人にさせるのではなく、ほかならぬドイツ人にさせるというやり方をとったために、この映画はある種のスキャンダル効果を生み、ドイツ人社会に深刻な反省をもたらしたようである。

テーマは、ネオナチによる外国人殺害に対して、家族を殺されたドイツ人女性が、正義を求めて戦うというものである。この女性はトルコ人男性と結婚し、ひとりの子供をもうけていた。その夫と息子を殺された女性は、警察からは侮辱されるし、犯人の裁判に訴訟参加者として臨んだその席で、信じられない光景を見せつけられる。被害者である自分らがまるで犯罪者のように扱われ、本当の犯罪者であるネオナチの被告に無罪が言い渡されるのだ。女性は、自分の夫がイスラムであることで、夫も自分もこんなに不条理な扱いを受けるのだと憤慨する。その挙句に、国家に正義を期待できないのであれば、自分自身が正義を実現させねばならぬと思い込む。彼女はその思いを胸に抱いて、ギリシャに来ていた犯人たちに自爆攻撃を加えるのである。

この映画を見ていると、ドイツ人の排外意識の深刻さを思い知らされる。少なくとも画面からは、ドイツにおける外国人の生命の軽さと、ドイツ人への甘さのようなものが伝わって来る。外国人とくにイスラム教徒がドイツ人に殺されたのは、それなりの理由があるのだし、ドイツ人である女性が外国人の側にたってドイツ人を訴求するのは正義に反している。だから、イスラムの夫を持つドイツ人女性は、ただひたすら忍従すべきであって、ネオナチとはいえ同じドイツ人を憎むのは筋違いだ、というような雰囲気が伝わってくるようになっている。それを演出したのが、ほかならぬトルコ系のドイツ人ファティ・アキンだとあって、この映画はある種のスキャンダルとなったわけである。

当該のドイツ人女性には、たいした政治意識はなかったといってよい。自分はただ愛する夫と息子を殺されたことで気が動転しているに過ぎない。愛する家族を殺したものには、それ相応の罰が下されねばならない。それが正義というものである。ところがその正義が踏みにじられた。踏みにじったのはドイツ国家そのものである。ドイツ国家そのものである裁判所は、一応判決を理屈づけて、疑わしきは被告の利益になどといっているが、その疑わしさの拠って来る理由というのが、被告の妻である女性の証言の信ぴょう性の薄さとか、ギリシャ人によってなされた犯人たちのための見え透いたアリバイ証言なのである。女性の証言の信ぴょう性への疑問は、女性とその殺された夫に麻薬服用の前歴があったということにつきるが、これは直接関係のないことを持ちだして、犯人に有利にことを運ぼうという意図を感じさせる。そういう意図を露骨に見せられて、女性は否応なしに政治的になってゆくのである。この場合政治的とは、国家への疑問を公然と表明することを意味するが、彼女の場合その疑問は、国家には直接向けられず、犯人を私的に制裁することで晴らされる。もっとも彼女は自分の命をもかけることになるのだが。

こういうわけでこの映画は、人間の怨念を直接のテーマにしながら、その怨念に火をつけたドイツ社会の欺瞞性を強烈な形であぶりだしている。

なお、題名にある「女は二度決断する」の意味は、一度目の決断は、主人公のドイツ人女性がドイツ人社会の反対を押し切って異邦人たるトルコ人と結婚したこと、二度目の決断は、ドイツ国家に代わって彼女が正義を実現させたこと、この二つを意味するようである。もっともこれは邦題であって、原題は「無から(Aus dem Nichts)」である。



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