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ロベルト・ヴィーネ「カリガリ博士」:ドイツ表現主義映画の傑作



「カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari)」は、1920年公開のサイレント映画で、ドイツ表現主義映画の傑作という評価が高い。表現主義というのは、20世紀初頭に、ドイツを中心に登場した芸術運動で、特に絵画において強い影響力を発揮した。表現主義(Expressionism)という名称からわかる通り、印象主義(Impressionism)への対抗という意味合いを持っている。印象主義が、外界の出来事を心のスクリーンに刻印(impress)することを目指したのに対して、心の内部を外面に表出(express)することをモットーとした。絵画においては、強烈な色彩とデフォルメされた形態が特徴である。

表現主義が、映画において実践されるのは、第一次大戦後のことであり、「カリガリ博士」は、その初期の代表作となった。表現主義の最大の特徴は、人間の内面を外部に向って表出することとされたが、それは具体的には、不安や恐怖などの強い情緒を醸し出すというところにあった。これを映画に応用するとどういうことになるか。それへの一定の回答が、この映画には見られる、というのが大方の評である。それを具体的に指摘すると、歪曲した空間とデフォルメされた形態によって人間の不安を表現しようとすることなどである。

この映画が作られた時点では、モンタージュ理論はまだ定式化されていなかったから、この映画では、モンタージュ手法とは異なった手法が用いられている。モンタージュ手法の場合には、一つのシーンを撮るのに際して、それをいくつもの画面に分解したうえで別々に撮影し、その後、それらをつなぎ合わせることが行なわれる。映画というのは、細分された映像を再構成することによって、展開していくものだとされたわけである。したがって、そういう映画にあっては、それぞれの場面{カットという}は非常に短い。その短いカットが次々とつなぎ合わされることで、映画が展開していくわけである。

この映画では、そうした手法はとられていない。映画のシーンは、モンタージュのように細かく分解されておらず、基本的にはワンシーン・ワンカットである。映画は、シーン=カットが直線的に連続することで展開していく。同じ時間帯に、複数のシーンが縺れ合うというふうにはなっていない。精々、カメラの角度を変化させることで、パンのような効果を狙うくらいだ。

シーンの転換に変化がないかわりに、シーンの中で表現される細部にこだわる、というのが表現主義のやり方のようである。少なくとも、この映画の場合はそう見える。画面は、何となく歪んでいるように見え、一つ一つのオブジェもデフォルメされている。また、登場人物の表情や身振りにも、何となく不自然な人為性が感じられる。

それ以上に、この映画には、全体に現実離れしているといったイメージが強く出ている。その非現実性は、この映画の主題である怪奇性を表現するのには、よく釣りあっていると言える。この映画は、怪奇映画の先駆者としても、歴史的な意義を持つとの評価が高いのである。

所謂怪奇映画であるから、ストーリーはかなりねじれている。映画で展開されるストーリーは、フランシスという男の回想と言う形で語られる。フランシスの住んでいる都市に、移動遊園地がやってくる。旅回りのサーカスのようなものである。その興行主であるカリガリと言う男が、眠り男(夢遊病者)を使った芸を披露して観客を集める一方、その眠り男を操って次々と殺人事件を引き起こす。その事件を、フランシスが恋人の父親とともに追及していくうちに、カリガリの正体が次第に明らかになってくる。

カリガリは実は精神病院の院長だった。精神科の医師として、カリガリは自分なりの研究テーマを持っていたのだが、それは一種のテレパシーを巡るものだった。このテレパシーの術を用いて人を操り、自分の思いどおりのことをさせることができるか、というのが彼の当面の研究課題なのだ。彼は、この研究のために、自分の患者の中から夢遊病者を選び、彼に対してテレパシーをかけようとする実験を思いつく。彼にこの実験を思いつかせたのは、中世のある学者の研究だった。その学者は、やはりカリガリ博士と言って、患者の夢遊病者を操って連続殺人事件を引き起こさせていた。その実験を、現代のカリガリ博士も追実験しようとしていたことが、彼の日記などを通じて判明するというわけなのだ。それ故、この映画の中で展開した一連の殺人事件は、妄想に囚われた一精神科医の犯行であった、ということになるのだが、その後に又どんでん返しのような結末が続く。

実は、フランシス自身が精神病の患者であって、カリガリ博士をめぐる彼の回想は、すべて妄想だったのだ。彼が殺人者だと信じ込んでいるカリガリ博士とは、実は彼が入院している精神病院の院長であり、夢遊病者のチェザーレは彼の患者仲間であり、恋人の女性も患者の一人だった。カリガリ博士は、フランシスの治療にあたっているのだが、治る見込みはかなり高いと判断している、というようなことが、映画の最後の最後で明かされる。

こんなわけで、この映画にはかなり人を食ったところがある。観客は、前半で謎解きの迷路にさまよわせられたあげく、最後の土壇場で、今まで映画の中で見聞してきたすべてが、精神病患者の妄想の世界だったということを知らされて愕然とさせられる次第なのである。

なお、技術的な特徴をいくつか付け加えると、アイリス・ショットの多用、白と黒のコントラストの強調、字幕を映画のなかのオブジェを活用して示すことなど、面白い工夫が目立つ。



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