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G・W・パプスト「三文オペラ」:ブレヒト原作の音楽劇



G・W・パプストが1931年に作った映画「三文オペラ( Die Dreigroschenoper )」は、ブレヒトの同名の戯曲をもとにした音楽劇を映画化したものである。もとになった音楽劇の方は、1928年に公演され大ヒットとなった。この作品の成功でブレヒトは、20世紀の演劇史上名を残すことになったわけだが、その理由は、この作品の持つ特別の政治性にある。この作品は、資本主義社会の矛盾を鋭く突いたものとして受け取られたのだが、この作品が公開された時代は、まさに資本主義の矛盾が先鋭化していた時期だったのである。

映画化された1931年は、世界大恐慌の混乱がまだおさまらず、資本主義の矛盾は一層先鋭化したというふうに受け止められてもいた。そんな時代背景を理解したうえでないと、この作品がどうして大ヒットしたのか、理由を見失うことになる。そんなわけもあって、この作品は、現代の観客から見ると、ちょっとずれたところを感じさせる。

パプストは、映画化するにあたって、原作をほぼ忠実に再現しているが、一部変えているところもある。メッキーが脱走する経緯や、大団円の部分などである。そうした修正も働いて、この映画は、政治的な色彩を薄める一方、娯楽映画としての要素を強めている。そこは、映画の興行的な側面を重視したパプストの配慮なのだろう。この映画が単なる政治的なプロパガンダ映画にとどまっていたら、今日の観客には見るに堪えないものになっていたはずだ。

ドイツ人の作品にかかわらず、舞台は何故かロンドンのソーホー地区である。ソーホーと言えば、劇場街に接して、飲食店などが軒を並べる下町といった印象が強いが、20世紀の初頭においては、貧民街のイメージが強かったようだ。乞食の親玉ピーチャムの巣窟はソーホーにあるということになっているし、ギャングの親分メッキー・メッサーは、ソーホーに隣接するテムズ河畔の倉庫街に隠れ家を持っていることになっている。

物語の大筋は、メッキー・メッサーとピーチャムの娘ポリーの恋と、二人の愛を邪魔しようとするピーチャムの企みとのやり取りである。メッキー・メッサーが何故ポリーに惚れたのか、映画の中では納得のある説明をしていない。また、ポリーの方も、たいして魅力があるとも思えない中年男に何故いかれてしまったか、それも伝わってはこない。そんなことはどうでもよいというように。

このメッキー・メッサーは、英語ではマック・ザ・ナイフという。メッキーはマックにウムラウトがかかった形だし、メッサーはナイフと言う意味だからだ。このマック・ザ・ナイフを歌った歌が世界中で大ヒットし、今でもポピュラー音楽のスタンダードナンバーになっているのは周知のことだ。

メッキーは、ポリーと出会ったその晩に、倉庫街の一角で結婚式を挙げる。パーティのお膳立てから、新居用の家具、そして立会いの牧師まですべてが盗んで来たものだ(牧師の場合には誘拐というべきだろう)。結婚式が終ると、メッキーの仲間たちは、大掛かりな銀行強盗のプログラムに取りかかるつもりだ。

一方、娘のポリーをメッキーにとられたピーチャムは、警察幹部のブラウンに、メッキーを逮捕するよう要求する。ブラウンは、メッキーとは昔からの付き合いで、友達を逮捕するなどできないことだと思うが、もしもいうことを聞かないなら、とでもないことになるぞとピーチャムに脅かされ、心ならずもメッキーを逮捕することになる。ピーチャムがブラウンを脅かしたというのは、聖十字架の祭に予定されている女王の行列に、乞食どものデモ隊をけしかけるというものだった。

こんなわけで、警察幹部を脅かすピーチャム、警察の追及を逃れて逃げ回るメッキー、メッキーの不在中にギャングの手下どもをてなづけるポリー、そしてピーチャムとメッキーの間に挟まって苦悩するブラウンという具合に、人それぞれの人生模様が描かれたあげく、クライマックスとして聖十字架祭での女王の行列の場面が来る。この行列に向って乞食のデモをぶつけようと画策した張本人であるピーチャムは、これが娘の出世の妨げになることを察知すると、俄然止めようとする。しかし、動き出したデモの隊列は、ピーチャムの制止を振り切って進んでいく。彼らの間の前に女王の姿が現れる。女王は一瞬驚いた表情を見せるが、無関心さを装って通り過ぎてしまう。

この非情とも言える場面が、この映画最大の見どころとパプストは考えたのだろう。権力の象徴たる女王の前に乞食どもが押し寄せる。それは極めて政治的でドラマティックな眺めだ。しかし、今日の観客の眼には、これはあまりドラマティックには映らないのではないか。

ポリーは、ただの生娘ではなく、なかなか隅に置けない女性だった。彼女は、銀行強盗のような手荒でリスクの大きいことをするかわりに、銀行を合法的に買収してしまうのだ。彼女はいまや、資本主義の犠牲者ではなく、資本主義を体現する偉大な人物に成長した、というわけである。

この辺は、ブレヒト一流のブラック・ユーモアなのだろうが、映画ではそこのところがいま一つピンとこないところがる。



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