壺齋散人の 映画探検
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ドイツ映画「顔のないヒトラーたち」:
フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判



「顔のないヒトラーたち(Im Labyrinth des Schweigens ジュリオ・リッチャレッリ監督)」は、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判をテーマにしたものだ。この裁判は、ナチスのホロコースト犯罪をドイツ人自身の手で裁いたもので、アウシュヴィッツの所長などが訴追され、20ヶ月の審理を経て、1963年に結審、17名が有罪になった。映画は、検事による犯人の追跡の過程を、フィクションをまじえながら描く。この映画が公開されたのは2014年のことだが、それがきっかけになって、ナチスの犯罪をテーマにした作品が、多く作られるようになったようだ。

映画では、この裁判が行われたきっかけは、なかば偶然のことだったとされている。一人の検事がたまたま友人からアウシュヴィッツの惨劇について聞かされ、法の正義を実現する為に、ホロコーストに手を染めた犯罪者個人を特定して告発しようと決意する。それに上司の検事が賛意を表して、組織として取り組むこととなるが、捜査はもっぱらこの検事にゆだねられる。ところが一人の力ではたいしたことはできない。その上に、当時のドイツ人たちは、ナチス時代のことを忘れたいと思っており、検事の調査に協力するどころか、それを妨害しようとまでする。戦後まだ20年もたっておらず、ドイツにはナチスの残党が沢山残っていて、ナチスの犯罪が暴かれることを望まないばかりか、ドイツ人がドイツ人を裁くなど狂気の沙汰だと思っているのだ。ヒトラーは死んだが、顔のないヒトラーたちが沢山生き残っているというわけだ。もっとも原題は「沈黙の迷宮で」という意味で、顔のないヒトラーに直接言及しているわけではないが。

こういう映画を見せられると、同じ敗戦国で、勝者から戦争犯罪を追及された国柄の国民である我々日本人は、複雑な気持にさせられる。多くの日本人は、東京裁判を正義の裁判だったとは思っていないし、ましてや日本人を日本人の手で裁くなど、頭の片隅にも浮かび得ない馬鹿げた考えだと思っている。それをドイツ人たちは、ニュルンベルクで正義の裁判が行われたとしたうえで、それで裁き得なかった連中を自分たちで裁こうとした(実際裁いた)。これは狂気の沙汰としか思えない。多くの日本人はそう思うのではないか。いい悪いは別として。

この映画が描いていることを、そのまま日本に当てはめて翻案すると、たとえば石井細菌部隊の人体実験の責任者を、日本の検察当局が追及して裁くといったことになるが、それがどんなに馬鹿げたことか。そう思わない日本人はあまり多くはいないだろう。ところがドイツでは、ドイツ人が同じドイツ人を裁くようなことをしたわけである。もっとも、原題にあるように、その試みは沈黙の迷宮を行くがごときすさんだ行為だったわけだが。

この映画をみて、日本とドイツとの差を考えさせられた。日本はなんだかんだいっても、国を挙げて戦争をした。ところがドイツでは、戦争やホロコーストを行ったのはナチスであって、国民はその巻き添えを食ったに過ぎないというような、ある種の合理化が進んでいる。だから。ドイツ人がナチスのホロコースト犯罪者を訴追するときは、あくまでもナチスという犯罪者集団に属する犯罪者を裁くのであって、ドイツ人がドイツ人を裁くという側面は背後に退けることができる。ところが日本の場合には、国をあげて戦争し、国民ひとりひとりがそれに深くかかわった。だから戦争責任者を追及することは、ある意味天につばするような行為なのである。そのような行為が馬鹿げて見えるのは自然なことだ。

というわけでこの映画は、日本とドイツとの間にある深い溝のようなものについて考えさせてくれる。



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