壺齋散人の 映画探検
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嘆きの天使(Der blaue Engel):スタンバーグとディートリッヒ



1930年のドイツ映画「嘆きの天使(Der blaue Engel)」は、マレーネ・ディートリッヒを一躍世界の大女優に売り出した作品だ。ディートリッヒの名声はいまでも色あせていない。とりわけドイツ人にとっては永遠の女性として愛されている。筆者は先日ベルリンのポツダム広場にある映画博物館を見物したが、そこでもディートリッヒの扱いぶりは半端ではなかった。ドイツ映画と言えばまずディートリッヒがあげられるほど、ディートリッヒはドイツ人に敬愛されているばかりか、ハリウッドで活躍したこともあって、世界の映画史に燦然とした輝きを放っている。

デイートリッヒがこれほど敬愛されているのは、彼女の姿勢にも理由がある。彼女はヒトラーの愛を拒絶し、ナチスと距離を取り続けたこともあって、ドイツ国内では一時上映禁止処分になったこともあったが、そういう迫害をものともせず、自分の信念を貫いた。女性としてはあっぱれなほど潔いのである。

ディートリッヒの魅力は、脚線美に象徴されるセクシーな身体と、人の心を震わせる魅惑的な声である。身体を揺らめかしながら声を震わせて歌う姿は、あたかも現代に生き返ったミューズのようであるというので、世界中の男たちを魅了した。そうした特徴は、出世作であるこの「嘆きの天使」でもいかんなく発揮されている。彼女の身体美は、蜂のように細い腰とがっしりした臀部そしてズワイガニのように長くて細い脚によって表現される。その蠱惑的な身体美が震えるような声に共鳴して、えも言われぬ人体美を披露してみせるのである。

それにしても彼女の身体は、理想的なポロポーションを保っている。ポイントは腰から脚にかけてだ。細くてしなやかなウェイストにがっちりとした臀部が続き、その臀部から長い脚が伸びているのだが、その足は臀部に接続する部分は太くてかっしりとしているが、やがて伸びるにしたがって細い脚線を描く、その脚線美がなんとも言えずセクシーなのだ。

映画の筋書きはいたってシンプルだ。ギムナジウムのプロフェッソルが教え子の悪ガキどもが入り浸っているキャバレーでディートリッヒ演じる歌姫に一目惚れし、なにもかも投げうってその歌姫に情熱を傾けるというものだ。そのあげくプロフェッソルは、歌姫が自分を裏切って他の男になびいたことに逆上して我を失い、ついにはかつて自分の立っていたギムナジウムの教壇で死んでしまうのである。

なんとも純情な男の、憐れさをそそる物語である。しかしプロフェッソルを笑ってはいけない。プロフェッソルが歌姫に心を奪われたのは、老いの身の脱線などではなく、人間としてごく当たり前のことなのだ。何故なら歌姫はどんな男でも心を奪われずには済まないほどの魅力をたたえており、その魅力に盲目なのは、男としてのみならず人間としても恥ずべきことだ、というような風情がこの映画からは伝わってくる。この映画はただの恋愛映画ではなく、美についての形而上学的な思惟をイメージ化した高尚な作品なのだ、というわけであろう。

プロフェッソルは、歌姫の一座とともに数年ぶりにギムナジウムのある街に戻ってくる。そこでプロフェッソルは一座に加わってパフォーマンスをすることを求められる。しかし気位の高いプロフェッソルは、かつての教え子たちの前にみじめな姿をさらすことを恥と感じる。その上愛する歌姫が自分に愛想をつかすあまりに他の男に色目を使うようにもなった。それを見るにつけてもプロフェッソルは、ピエロに扮した自分の姿と自分を裏切った歌姫への恨みから、泣きたいような気持ちがこみあげてきて、コケコッコオと泣き叫ぶのである。というのもプロフェッソルは、手品の流れで自分の目玉から卵を生み出すはめになり、卵を産んだからにはコケコッコオと鳴くべきだと、観客の皆さんから期待されたからである。ともあれ、そこのところがなんともすさまじい迫力で見る者を動かす。

題名の「嘆きの天使」はドイツ語の Der blaue Engel を邦訳した言葉で、歌姫たちが興行していたキャバレーの名前である。ブルー・エンジェルといえばいかにもキャバレーらしい名前に聞こえるが、嘆きの天使と言うとだいぶニュアンスが変わってくる。

監督のヨゼフ・フォン・スタンバーグはオーストリア生まれのユダヤ人。この映画でディートリッヒと組んだ彼は、その後二人でハリウッドに渡り、ディートリッヒの美しさをフィーチャーした作品を作り続ける。




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