壺齋散人の 映画探検
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ことの次第:ヴィム・ヴェンダース



ヴィム・ヴェンダースは、「都会のアリス」から始まるロード・ムーヴィー三部作では、旅をしているという以外これといったストーリーを持たず、登場人物たちの繰り広げる日常の動きを淡々と写し取ることに映画作りの情熱を傾けていた。その傾向は、ロード・ムーヴィーではない作品では一層強まる。1982年の作品「ことの次第(Der Stand der Dinge)」は、ロード・ムーヴィーのように旅という枠設定も持たないまま、登場人物の日常を淡々と描いているために、作者はいったいそれを通じて、何を主張したいのか、観客には一向にわからない。それでいて退屈なわけではない。二時間に及ぶこの映画を、ヴェンダースは観客を飽きさせることなく見せているのである。

この映画は、映画作りのメンバーの行動を描いたものだ。映画作りの現場を描いたといってもよいのだが、それが必ずしも適切な言い方でないのは、映画が描いているのが、映画を作っている現場ではなく、映画作りができないでいて、イライラしているスタッフや俳優たちの表情をもっぱら描いているからだ。何故彼らはイライラしているのか。それはプロデューサーが蒸発してしまって、資金面その他で映画作りの円滑な進行ができなくなってしまったからだ。

映画作りというものは金がかかる仕事なので、しっかりとした資金計画がまず問題となる。それを担うのがプロデューサーだ。日本の場合には伝統的に、映画製作会社がプロデューサーの役割を果たしていたので、プロデューサーが個人として話題になることはあまりなかったが、欧米の場合には、個人としてのプロデューサーの存在意義が圧倒的に高い。プロデューサーは、単に資金計画を立てるばかりではない、映画のアイデアにも深い関与をする。場合によっては、監督よりも強い影響を映画作りに及ぼすこともある。そういうわけであるから、プロデューサーが途中からいなくなってしまうということは、その映画作りが頓挫することを意味する。

この映画は、頓挫した映画作りにあたって、取り残された監督はじめスタッフや俳優たちのイライラした表情を描く。彼らは多国籍の人間からなっていて、互いに話し合うときの言葉は英語を使っている。同じ国籍同士の人間相手では、その国の言葉、たとえばフランス語を話す。そんなわけでこの映画は一応ドイツ映画なのだが、使われている言葉としては、ドイツ語はほとんど出てこない。監督のフリッツはドイツ人ということになっているが、彼は現場リーダーとして専ら英語を使う。それでもドイツ映画と言えるのか、むつかしいいところだが、そこはドイツ人も割り切って見ていたのかもしれない。

スタッフや俳優たちのそれぞれの表情が映し出される。それらの間には、相互に何等の関係もない。カメラマンのジョーは、危篤状態だった妻が死んだという知らせを受けてロサンジェルスに戻る。子連れの夫婦は他にすることがないので、この時とばかりセックスに励む。そのセックスを二人の女の子たちが覗き見て興奮する。フランス人の恋人たちもセックスに励む。恋人のいない連中は、それぞれ酒を飲んだり音楽を聞いたりして無聊をなぐさめる。そういった具合で、全く物語性を感じさせぬまま、映画は淡々と続いてゆくのだ。

それについて、ヴェンダースは登場人物たちに面白いことを言わせている。物語がなけりゃ映画は作れない、と言わせる一方で、物語を入れると生命が逃げてゆく、とも言わせている。ヴェンダース自身は、後者と同じ考え方をしているようである。

物語らしいところは映画の最後で初めて出て来る。監督のフリッツが、プロデューサーのゴードンを追ってロスアンジェルスまでゆき、映画作りの続行を訴えようとするところだ。そこでフリッツは、複数の人物から、ゴードンが脚本家のデニスから映画作りの資金を借りていたこと、またマフィアの金を使い込んだことで苦しい立場に立っていることなどを聞かされる。それを聞いたフリッツは、ゴードンが映画作りの資金を持ち逃げしたことを悟る。

ともかくフリッツはゴードンを追いかけ続け、ついにつかまえることができる。その結果、自分の憶測が正しかったことを知る。ゴードンは見知らぬ男のキャンピングカーで逃げ回っていたのだ。だが、ついにギャングに追い詰められ殺されてしまう。フリッツもその巻き添えを食らって殺されてしまうのだ。この部分がこの映画で唯一物語らしい部分だ。しかし、とってつけたような印象は否めない。




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