壺齋散人の 映画探検
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ベルリン、天使の詩:ヴィム・ヴェンダース



ヴィム・ヴェンダースが「ベルリン、天使の詩(Der Himmel über Berlin)」を作ったのは1987年のことだから、まだベルリンの壁があった頃だ。その頃のベルリンの街を、この映画は詩情豊かに描いていた。筋らしきものはない。二人の堕天使がベルリンの街に下りて来て、街の佇まいを見物しながら、人々の暮らしぶりを観察し、時には不幸な人に寄り添いながら、感想を詩にして披露する。その詩というのは、「子供は子供だった頃」に始まり、「ブルーベリーがいっぱい降って来た」とか「くるみを食べて舌を荒らした」とか続くものだ。映画の中で空から降って来たのは、ブルーベリーではなく、天使だったわけだが。

その天使たちが、壁で分断されたベルリンの街を歩く。そのベルリンの壁も映像として出て来る。現在壁博物館があるポツダム広場も出て来るが、その当時のこの広場は、それこそ廃墟そのままで、ほとんど何もない状態だ。ここは、かつてはアレクサンダー広場と並ぶ、ベルリン最大の繁華街があったところで、現在は再び昔の賑わいを取り戻している。小生がベルリンを旅した際には、ソニー・ビルの中にある映画博物館を訪ねたものだが、この映画の中には、無論そんなものは出てこない。壁が崩壊したのは1989年のことであり、それから20年もたたないうちに、ベルリンは戦前なみに復興したわけである。

映画はその他、図書館とかサーカスとかナイトクラブを写しだしているが、これらはみな西側にあったのだろう。図書館は非常に大きなもので、開架式になっており、市民は誰でも直接本を手に取って読むことができるようになっている。この図書館は、おそらく国立図書館なのだろう。

二人の天使は一緒に歩き回ることもあるが、だいたいは別々に歩き回る。そのうちの一人が、サーカスを見物しているうちに、ブランコ乗りの女に恋をして、自分も人間になりたいと願う。その願いはかなえられて、かれは人間になる。その瞬間、いままでセピア色で表されていた画面がカラーの画面に代わる。ところが、もうひとりの天使が出て来ると、またセピア色に戻るといった具合に、天使の状況に応じて、画面の色合いが変るようになっている。

もう一人、あの刑事コロンボを演じたポーター・フォークが重要なキャラクターとして出て来るが、かれももと天使だったということになっている。かれは今では人間として快適な暮らしをしているのである。

天使たちは、われわれは人間の歴史が始まるはるか前から、この地球のことを知っていた。その悠久の時間に比較すれば、人間の歴史など瞬間に近い。その瞬間に近い時間を、人間は互いに争いながら暮らしている。これは愚かなことではないか、というようなメッセージが伝わって来る。たしかに、人間というものは愚かな生き物だ。にも拘わらず、天使のなかにはその人間になりたがる者もいる。それはどうしたわけだろう。映画はそのように問いかけているようにも見える。

天使がブランコ乗りの女の部屋に入っていくと、女は「愛したい」とつぶやく。それはおそらく、「男が欲しい」という意味なのだろう。この言葉を受けて天使は、人間の男になろうと決意するのだ。その決意を実行して人間の男になった天使は、ナイトクラブで女と逢う。ところが、人間の男になった天使は、自分の愛をうちあけるかわりに、こむつかしい議論を展開して見せるのだ。ドイツ人というのは、そうしたこむつかしい人間で、ドイツ語はこむつかしい理屈を振り回すのに向くよう作られている。そんなふうに思わせる一幕である。

その女は、映画の前半では、つまりセピア色で出ている部分では、フランス語を話しているのだが、カラーになった時には、ドイツ語を話すようになる。その辺が面白い。映画のラストでは、続編があるとのメッセージが流れる。もっとも、ヴェンダースの手では、続編は作られなかったようだ。




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