壺齋散人の 映画探検
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誰のせいでもない:ヴィム・ヴェンダース



ヴィム・ヴェンダースの2015年の映画「誰のせいでもない」は、日本人にとっては理解しがたい内容の作品である。交通事故で小さな子どもを死なせた男が、法的には何の責任を負うこともなく、また死んだ子の母親からも責められることもなく、自分自身良心の呵責を感じている様子にも見えない。彼は作家なのだが、自分が犯したことよりも、自分自身の職業的な成功のほうが大事、というふうに伝わって来る。こういう話は、日本人には理解しがたいものだ。日本では、過失の程度が軽い場合にも、小さな子を交通事故で死なせた人間が無罪放免になることはほとんど考えられないからだ。

映画の舞台は、明示されてはいないが、カナダの雪深い片田舎の村ということらしい。男が車を運転している最中、橇で遊んでいた小さな兄弟をひいてしまう。兄は無事だったが、弟は死んだ。さっそく警察の現場検分が行われた結果、男には過失がなかったと認められたのだろう、その場で釈放される。そのことについて死んだ子の母親は不平を言うわけではなく、かえって、気になさらないでくださいなどという。こういう場面を見せられただけで、日本人ならかなりな違和感を覚えるに違いない。

男は売れない作家で、恋人がいるのだが、どうも自分本位の人間のようで、恋人とはうまくいかない。男は作家としての成功を夢見ているのだが、恋人は子供が欲しいという。そこに男は生き方のギャップを感じるのだ。

男は、二年後に事故現場を訪ね、死んだ子の母親と会う。その時に母親は、あれはあなたのせいではなく、子供たちを放置しておいた私が悪かったのだという。こういう反応は、日本人にも理解できないではないが、しかし加害者に向ってこんなことをいう日本人はいないだろう。それほど、この映画の中の人間たちは、日本人と異なった意識を持っているように思える。

男は、作家として成功し、私生活では恋人と別れたあと、子持ちの女と結婚したりする。そして事故から十一年後、死んだ子の兄から手紙でコンタクトがある。小説執筆中の男は、気持ちが乱されるのを恐れて面会を拒むが、その母親から面会するようにと強く申し入れられる。あなたは私の力になることは何でもすると誓ったではないか、といって。

そこで男は死んだ子の兄と会ってやるのだが、その子は、自分の家族に重大な影響を与えた男を、憎んでいる様子を見せる。それを見て男は、自分の犯したことの意味を幾分かは感じたように伝わって来る。

それからしばらくして、何者かが家の中に侵入し、ベッドに小便をかけられるということが起る。不審に思っている男の前に、深夜あの死んだ子の兄が現れる。そして自分のした行為の理由のようなものを語る。自分の母親はあのことで苦しみ続けてきたのに、あなたは作家として成功した。その違いが許せないというのだ。結局男は、法的な責任を負わされることはなかったが、道義的な責任までは逃れられなかった。そのつけを、死んだ子の兄によって払わされた、というふうに映画からは伝わって来る。

それにしても邦題の「誰のせいでもない」は、よく映画の雰囲気にマッチしたものだ。事故を起こした男に責任はない、誰のせいでもないのだ、神の思し召しでそうなったのだ、と言っているかのような映画の雰囲気をよくあらわしている。原題は、Every Thing Will Be Fine というのだが、それでは映画の以上のような雰囲気は伝わってこない。




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