壺齋散人の 映画探検
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戦争と映画その二


2 日本の戦争映画
 日本の戦争映画は、時期的に、戦時中、敗戦直後、講和以降に分けて論じるのがよいだろう。
 戦時中:日本の戦争は、まず日中戦争として始まり、ついで真珠湾攻撃以降の連合国を相手にした全面戦争へと発展する。それぞれの様相に応じて、戦意高揚映画がおびただしく作られた。日中戦争時には、中国大陸を怒涛のごとく進む日本軍が描かれ、真珠湾以降は、日本の戦闘機の優秀さを強調するような映画が作られた。それらは、おしなべて戦意高揚映画として位置付けられたわけだが、また、そのような映画に対して軍部も便宜を図ったのだったが、日本の戦時中における戦意高揚映画には著しい特徴がある。それは一言でいうと、戦争の厳しさや兵士たちの苦労を誇張することにあり、外国人が見ると、戦意高揚というよりは、厭戦気分を表現したものとしか受け取れないということである。
 土と兵隊:田坂具隆が1939年に作った戦意高揚映画で、日中戦争を描いているが、描かれているのは日本の兵士たちがただひたすら泥土の中を行進する姿であって、敵の姿は出てこない。兵士たちが泥土に足を取られながらも、助け合いながらひたすらに行進してゆく姿が映し出される。彼ら兵士たちの表情には、国のために戦っているといった誇りは感じられない。ただただ命令にしたがって困難に耐えている姿だ。
 こういう姿を見せられると、果たして国民は戦意を高揚されるだろうか。とりわけ主題歌の次のような歌詞を聞かされて、自分の肉親の安否を心配しない者があっただろうか。
 ~夜の深さに 眸を投げりゃ どれが道やら 畠やら まして篠つく 雨の中 俺につづけと 手を振る兵も 三歩あゆんで 二歩すべる
 ~戦友の担架に 顔すり寄せて 傷は浅いぞ 案ずるな 今度いよいよ 俺の番 さらば行くぞと 駆けだす兵に 十日経ったら 俺も行く
 ところがこういう場面やら歌の文句に戦意高揚の効果があると考えられた。それは、兵隊さんがこんなに苦労しながらお国のために戦っているのだから、銃後の国民も戦争に協力すべきだという理屈がまかり通っていたからである。
 戦ふ兵隊:これは亀井文夫が1939年に作ったドキュメンタリー映画である。亀井は面白い経歴の持ち主で、映画技術をソ連で学び、コミュニストだったのだが、そんな経歴を軍部が知っていたのかどうか。とにかく軍部の要請で作られた。日本軍が、重慶に移った国民党政権を追って、はるばる徒歩の進軍をするところや、途中で起きた中国軍との衝突をドキュメンタリータッチで描いたものだ。この映画でも、日本兵はみな疲れ切った表情をしており、重慶を占領しても、勝利の高揚感は伝わってこない。苦労した結果ようやく目標に到達できたという安堵間だけが伝わってくる。
 陸軍:これは1944年に木下恵介が陸軍の依頼で作った。太平洋戦争緒戦の勝利を記念するものだったらしい。この映画は、国民に戦争への協力を露骨に呼びかけている。それは次のような言葉で表されている。「子供は天子様の授かりものだから、いざというとき天子様に差し出すのはあたりまえのことだ」。この言葉通り、徴兵された子どもの行進を追いかけるというのがこの映画のハイライトだ。子どもは出征を記念した行列に加わって博多の街を行進する。その息子の姿を、田中絹代演じる母親が追い続ける。この場面が二十分にわたって続く。その間、母親も息子も一言も発せずに黙々と歩く。その黙々としたところが、見る者に複雑な思いを抱かさせる。結局この映画を陸軍は気に入らなかったらしく、以後木下は映画作りの現場から干された。
 ハワイ・マレー沖海戦:これは1942年に、太平洋戦争の緒戦勝利を記念して作られた。監督は山本嘉次郎。この映画では、少年飛行兵の凛々しい表情がクローズアップされる。あたかも戦争末期における特攻隊の運命を予感させるような映画だが、海軍も映画会社も、これを戦意高揚映画の傑作と信じてあやしまなかった。

 敗戦直後:敗戦後の日本の映画界はGHQの厳しい検閲化におかれた。そのため、太平洋戦争における日本の立場を擁護するものや、敵国(連合国側)を批判するような内容の映画は一切弾圧された。そんなことから、日本の映画人は、第二次世界大戦(日中戦争及び太平洋戦争)を正面から描くことをためらった。戦争を描くこと自体がタブー視されたわけである。そこで彼らは、敗戦後の日本の窮状を描くことで、間接的に戦争にコミットする道を選んだ。それは多くの場合、戦争によってひどい目にあわされた庶民の怒りを感じさせるような内容のものだったが、なかにはそうした批判意識を抑圧して、ひたすら戦後の廃墟をドキュメンタリー的に描いておこうというものもあった。黒澤明は後者の代表であり、溝口健司や小津安二郎は前者の代表だった。
 素晴らしき日曜日:黒澤明は、敗戦後廃墟と化した東京の街をリアルに描いた。1947年の「素晴らしき日曜日」はその最初のものであり、敗戦直後の東京の様子が如実に伝わってくる記念碑的な作品である。黒澤はその後も、「酔いどれ天使」、「静かなる決闘」、「野良犬」などで、敗戦後の東京の様子をドキュメンタリータッチで描くとともに、戦争に翻弄された人たちの運命のようなものも描いている。しかし、戦争についての批判的な考え方を盛り込むことはなかった。そこには、批判と映画とは基本的に違うものだという黒澤なりの考えが反映していたのだと思う。
 「素晴らしき日曜日」は、戦後の東京でたくましく生きる男女を描いたものだ。その日暮らしの彼らには、結婚しても一緒に住む家もないどころか、その日のデートの金もろくにない。それでも彼らは明日への希望を失わない。東京の街が復興に向けて始動しはじめたように、彼らも自分たちの未来を切り開こうと決意する。その決意がスクリーンを通じて観客にいたいほど強く伝わってくるような内容の映画だ。この映画はそういう意味で、当時の日本人を勇気づけたのだと思う。
 夜の女たち:溝口健司は、戦前から女の立場に寄り添った映画を作り続けて来た。男たちに食い物にされながらも、自分の運命に押しつぶされるのではなく、それを逆手にとってたくましく生きてゆく女たち、それが溝口健司の世界を色どる主人公たちだ。そうした溝口の映画作りの特徴が、「夜の女たち」にもよく現われている。この映画で溝口が描いて見せたのは、戦争の最大の被害者は女だったという現実だ。
 田中絹代演じる女が、戦争で夫を失い、またかけがいのない一人息子を病気で失う。その子を救うために売春までやったのだが、その甲斐なく死なせてしまった。絶望した彼女は、夜の女となって荒れた生活を送る。敗戦後にはこうした女たちがあふれていた。彼女らの中の運のよいものはいわゆるパンパンとなってアメリカ人の妾のような生き方を選んだが、運の悪いものは街娼となって男たちの慰めものとなる。そうした境遇に彼女らを陥れたのは戦争であって、戦争さえなかったならそんな不幸な境遇には陥らなかった。溝口は、正面からそう主張しているわけではないが、彼の映画を見たものはみなそう感じたに違いないのである。
 風の中の牝鶏:小津安二郎の映画「風の中の牝鶏」も、「夜の女たち」と似たような問題意識を感じさせる。これもまた田中絹代が不幸な女を演じているが、「夜の女たち」とは違って、夫が生きて復員してくる。ところがその前に彼女は、一人息子の病気を救おうとして、売春を行う。そのことが深いトラウマとなった彼女は、そのことを夫に打ち明けずにはいられない。そこでこの夫婦には深刻な危機が生じるのだが、妻がそうしたのはやむにやまれぬことだったのであり、彼女にはそれ以外に選択肢がなかったと感じた夫が罪を犯した妻を許すところを描いている。「夜の女たち」とはまた違った視点から、戦争によって運命を狂わされた女を描いているわけだが、女がその運命におしひしがれて自暴自棄になったりしないぶん、彼女の運命の過酷さが伝わってくる作品である。
 以上の作品群は、戦争によってひどい目にあわされた人々に焦点を当てているという点で、イタリアのネオレアリズモと似ているところがある。




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