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マルセル・カルネ「愛人ジュリエット」:ジェラール・フィリップの夢



愛人ジュリエット(Juliette ou la Clef des Songes)は、リアリスティックな作風で定評のあるマルセル・カルネ(Marcel Carné)としては、非常にユニークな作品だ。この映画は、現実ではなく夢を描いている。夢と言えばシュル・レアルなところがつきものだが、この映画はシュルというよりコントル・レアルだ。というのも、夢の中で出てくる人々は、ことごとく記憶を失い、なおかつ失った記憶にこだわりつつあるような人々だからだ。そんな人々をテーマにするなんて、コントル・レアルとしか言いようがない。

夢を見るのは、ジェラール・フィリップ(Gérard Philipe)演じる一人の囚人だ。この男は、勤務先から金を盗んだことで豚箱にぶち込まれたのだ。金を盗んだ理由は、出来たばかりの恋人と一緒に、海水浴に行く資金が欲しかったからだ。でも、豚箱に入れられてしまっては、遊びに行くことはかなわない。その代わりにできることと言えば、夢の中で恋人とデートをすることくらいだ。こんなわけで、この男は進んで夢を見るというわけなのだ。

ところがその夢はいかにも奇想天外で、コントル・レアルなものだった。主人公のミシェールは恋人のジュリエットを求めて徘徊するうちにある村にたどり着く。ところがその村の人々に村の名前を聞いても、誰一人知っている者がない。彼らが知らないのは村の名前ばかりではない。自分の名前さえ忘れてしまっているのだ。つまり、この村の住人達は、ことごとく記憶を失った人々なのだ。

記憶を失った彼らは、それをなんとかして取り戻したいと考えている。したがって、ミシェールのようにまだ記憶をなくしていない人間を見かけると、近寄ってきて過去のことを訪ねたがる。そうすることで、自分がどのような過去を送って来たか、手がかりがつかめるかもしれないからだ。

こんなわけだから、彼らには現在や未来よりも過去が最大の関心事だ。占いさえ、未来のことではなく過去のことを思い出すために行われる。過去を思い出す手がかりとして、思い出の品々が重宝される。人々はその思い出の品々を抱きしめながら、自分の失われた過去の償いを期待するのである。だから郵便局も、最近出された手紙ではなく、三年前に出された手紙を配達する。最近出された手紙には過去の手がかりが含まれていない。三年前の手紙なら、それを含んでいるかもしれない。

ミシェールの前に現れた人物の中でも最も重要な役割を演じることになるのは、城主の貴族だ。彼は、自分は過去に偉大な人間であったはずだが、いったいどんな人間だったか、名前さえ忘れてしまったといって、お前はわしの過去を知らないかと詰め寄る。無論ミシェールにそんなことがわかりようもない。

この城主はまた、ミシェールが求めているジュリエットに対してモーションをかける。だがジュリエット(シュザンヌ・クルーチェ Suzanne Cloutier)はこの城主を好きにはなれない。まだ記憶のかけらが幾分か残っていて、自分の愛していた人はもっと若くてハンサムなはずだと思っているからである。

そのジュリエットとミシェールは、遂に森の中で出会う。出会った瞬間に二人は、お互いに求め合っていたことを直感する。しかし、ジュリエットには、過去のことを詳しく思い出すことができない。それで思い出の品々を手にとっては、自分たちの過去はこんなものだったのかしらと推量したりする。一方ミシェールには過去の記憶が残っているので、ジュリエットのそんな行為が痛々しく見える。しかし、彼女が過去を忘れていることで、自分が犯した盗みのことを始め、都合の悪いことはなかったことにしておける。過去を忘れるというのは、不都合なことばかりではないのだ。

だが、ジュリエットの記憶喪失は更に進み、ついにはミシェールが誰かもわからなくなってしまう。そんな彼女を城主が仕留めて、自分の妻にしてしまう。ミシェールにはそれを防ぐことができない。地団駄を踏むばかりだ。そしてその地団駄を踏みながら目が覚めるのだ。

目が覚めたミシェールは豚箱から解放される。勤務先の店主が訴えを撤回したからだ。その影には、本物のジュリエットの懇願があった。彼女は店主と結婚することと引き換えに、元恋人を開放して欲しいといったのだ。

解放されたミシェールはジュリエットのアパートに侵入する。だがもはや二人の心は通わなくなっていた。絶望したミシェールはジュリエットの部屋を後にする。それをジュリエットが追いかけ続ける。この追いかけごっこの途中で、ミシェールは変な扉を見かける。その扉には「進入禁止」をいう表示がしてある。ミシェールが思い切ってその扉をあけると、その先には夢の中で出てきたあの村があった。

この忘却の村に、ミシェールはかつて夢の中で入っていったわけだが、今度は現実の世界のなかで入って行こうとする。それは、ミシェールにも忘れ去ってしまいたいことができたためだ。そういうメッセージが伝わってくる場面である。

このようにこの映画は、人間の忘却というものをテーマにしている。その忘却は、夢の中ではマイナス・イメージとして現れたわけだが、現実の世界では望まれるものとして、プラス・イメージに描かれている。いやなことを忘れることが出来なければ、この世は生きるのが辛くなる、というように。

ミシェールにとって忘れたいことは不幸な悲恋の痛手であっただろうが、他の人にとってはどんなことか。それをじっくりと考えて欲しい、というのがマルセル・カルネの言いたかったことなのだろうか。この映画は、アイデアから脚本にいたるまで、カルネ自身が作ったものだ。



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