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ジュリアン・デュヴィヴィエ「白き処女地」:カナダのフランス移民



ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)は非常に器用な映画監督で、活劇、音楽劇、喜劇、宗教劇と様々なタイプの映画を作り分けている。しかも(トーキー時代の初期においては特に)多産であった。それだけ人気があったのだろう。「白き処女地(Maria Chapdelaine)」は1934年の作品であり、彼の初期の代表作の一つだ。カナダのフランス人入植者の生活を詩情豊かに描いており、カナダの厳しい自然とそこに生きるフランス人たちの生きることへの拘りが伝わってくるような作品である。

「白き処女地」というタイトルは日本語でつけたもので、原題は「マリア・シャプドレーヌ(Maria Chapdelaine)」という。ヒロインの名前である。マリアはカナダのケベック州の小さな村(ペリボンカ)の、そのまた郊外の人の住まないような原始の場所に家族と共に暮らしている。そんな彼女に三人の男たちが思いを寄せる。彼女はこの男たちのうち誰の愛に応えるべきなのか、迷い通す。その結果、自分の選んだ男と結婚の約束をする、という非常にシンプルな筋書きなのだ。

「白き処女地」という日本語のタイトルにも、映画の内容に相応しいニュアンスがある。マリア(マドレーヌ・ルノー Madeleine Renaud )たちが暮らしているところは、夏が短く、冬が長い。その長い冬は雪に閉ざされて、それこそ一面が白い世界になる。ただ白いだけではない、そこはまだ人の手の入っていない処女地なのだ。そんなところに暮らすフランス人開拓者たちの逞しい生き方を、この映画は賛歌しているのである。

原始林に囲まれてひっそりと暮らしているマリアの家族にとって、唯一の楽しみはペリボンカ村に出かけて行くことだ。村に行けば、多くの人々に会えるし、気晴らしをすることもできる。

ある日、マリアの家族がペリボンカ村に出かけていくと、出稼ぎから久しぶりに戻ってきたという青年フランソワ(ジャン・ギャバン Jean Gabin )がいた。フランソワはすっかり娘らしくなったマリアを見て、心を惹かれてしまう。マリアの方でもそんなフランソワがまんざらでもなく思われる。

マリアには、もう二人の男が思いを寄せる。一人は大都市(モントリオールのことだろう)からやって来た青年ロランゾ(ジャン・ピエール・オーモン Jean Pierre Aumont )だ。ロランゾは、一緒に大都市へ行って暮らそうとマリアを誘惑する。もう一人は、マリアの家に近いところに小屋を建てて原始林を切り開いている逞しい青年ユトロープ(アレクサンドル・リニョー Alexandre Rignault )だ。ユトロープは照れ屋なので、自分の思いを素直に打ち明けることがなかなかできないでいる。

マリアの心を最初に掴んだのはフランソワだった。マリアに愛を打ち明けたフランソワは、いままでの無頼の生活を改めて、堅実な生活をする、また結婚に必要な資金を稼いで、翌年の春に戻ってくるから、それまで待っていてほしいという。それに対してマリアは、待っていると答えるのだ。

フランソアは、夏場の仕事を求めて原始林の中に入っていく。やがて厳しい冬が来てフランソワは雪の中に閉じ込められる。もはやそこから外部へ向かって出て行くことは、非常に困難だ。ところがフランソワは、マリアへの思いが募って、雪が解けるまで待てなくなる。彼は、危険だからやめろと言う仲間の制止を振り切って、一人で歩いてペリボンカに向かう。しかし、その途中で吹雪に閉じ込められて命を落としてしまうのだ。

フランソワの死に接したマリアの落胆は深刻だった。しかも、彼の葬儀の場で、ロランゾから改めて結婚を申し込まれ、心が一層動揺する。そんな彼女を見たユトロープも心が烈しく動揺するのを感じる。

そううちに母親が病気になり、ついには死んでしまう。母親の死の床で父親が語りかける。こんなところにお前を巻き添えにして済まなかった。我々にはもっと違う生き方もあったのに、と。

ペリボンカの町の教会で母親の葬儀を執り行う。牧師が説教壇の上から母親の生き方を称える。彼女のような人々が力を尽くして頑張ってきたおかげで、カナダのフランス人社会が維持されてきた。我々フランス人は、カナダに来て300年になるが、その間フランス人としての誇りを失わず、汗水たらして働いてきたのだ。我々後に続くものは、先祖たちの切り開いた道を、更に先へと伸ばしていかなければならない。ペリボンカの人々は、この町を更に発展させていくことが、課せられた課題だと思わねばならない。シャプドレーヌ家の母親がそうしたように、と。

この牧師の言葉を聞いたマリアは、自分も母親のようにこの地で頑張っていこうと決心する。そんなマリアにユトロープが愛を打ち明ける。マリアはユトロープの愛を受け入れて、こういうのだ。「春がやってきて、種をまく季節になったら、あなたの妻になります」と。

以上、この映画はマリアという女性を中心に展開していくのであるが、彼女の愛と並んで、大きな見どころは、カナダの自然が美しく表現されていることだ。その自然は、夏には人々を優しく包んでくれるが、冬には厳しい表情に一変する。その厳しい表情をした自然の中を、ジャン・ギャバン演じる一人の男が裸同然のように歩いていく。厳しい気候に加え、狼も男の命を狙う。恐らく男の命を直接に奪ったのは、狼たちに違いないのだ。

また、カナダにおけるフランス人社会がどのようなものだったのか、ということもこの映画は知らせてくれる。厳しい自然のなかで人々は助け合って暮らしている。母親が死の床で、大勢の友人たちの幻影を見て、一人ひとりに親しく語りかけるシーンが出て来るが、それは彼女らフランス人同士の絆がどんなに強かったか、ということのあらわれともいえる。

フランスらしさという点で興味深いのは、この映画の中では、フランス民謡が繰り返し歌われることだ。「泉のほとり」、「ひばりさん」、「イエス様がお生まれになった」など、フランス人であれば誰一人知らない者のない歌ばかりだ。日本の民謡と違って、フランス民謡は大部分が「童謡」を兼ねているので、そうした歌が聞こえてくるというのは、家族の絆を強く意識させるものなのである。この映画はだから、男女の愛とともに、家族の絆を描いたものだともいえよう。



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