壺齋散人の 映画探検
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ジャン・コクトー「美女と野獣」:ボーモン夫人のおとぎ話



ジャン・コクトー(Jean Cocteau)は詩人として出発したが、その他さまざまな芸術分野でも非凡な才能を発揮した。映画作りもその一つである。彼が始めて作った映画は、1932年の作品「詩人の血」だったが、これは、絵に描いた人間の口が本物の口のようにしゃべりだしたり、それを手のひらで拭い取ったら、手のひらでしゃべりだしたりとか、いかにもコクトーらしさが溢れたファンタジックな映画だった。

その後コクトーは、映画作りから遠ざかっていたが、第二次大戦が終わると再開した。その第一弾が「美女と野獣(La Belle et la Bête)」である。この映画の原作は18世紀の作家ボーモン夫人の書いたおとぎ話で、中世の説話をもとにしたものだ。「詩人の血」ほどではないが、やはりコクトーらしさの溢れたファンタジックな作品である。

コクトーはこの映画を、大戦終了後すぐに作り始めた。何がコクトーをして、映画作りに向かわせたのか、詳しい事情はわからない。大戦中のフランスは、ナチスドイツに占領され、映画に限らずあらゆる芸術活動が抑圧されていたから、戦争が終るや、今まで抑圧されていたものが爆発したという事情があったから、コクトーもまた、抑圧から解放されたエネルギーを映画作りに向けたということかもしれない。

敗戦国の日本やイタリアでは、戦争によってひどい目にあわされた庶民の視線から、反戦的な色合いの強い映画が多く作られたものだが、フランスは戦勝国であったこともあって、真正面から反戦感情を描いたものはあまり作られなかった。クレール始め巨匠と言われた作家たちも、戦争を正面から取り上げた映画は作らなかった。そんななかで、映画界にとっては異邦人だったコクトーも、戦争とは全く関係のない、ファンタスティックな映画、それはコクトーのコクトーらしさをなすものだが、そんなものを作りたいと思ったわけであろう。

映画はボーモン夫人の原作を、細部に一部異同はあるものの、おおむね再現している。魔法によって野獣に変えられた王子の城に商人が迷い込んで庭のバラを摘み取ると、野獣が現れて商人の盗みを責め、償いとしてお前の命を差し出すか、かわりにお前の娘を差し出すか、どちらかにしろと迫る。家に帰った商人がそのことを子どもたちに話すと、上の二人の娘は拒絶するが、末娘が身代りになりますという。こうして野獣の城にやってきた娘と野獣との間に奇妙な共同生活がはじまり、その挙句に二人は結ばれる、というような内容である。

話しの内容もファンタジックだが、それ以上にファンタジックなのは細部の描写だ。例えば城のデコレーション。城の内部には様々な石膏像が置かれているが、それらの像の顔は生きているように動く。また壁際に架けられた燭台や、テーブルの上の燭台は人間の腕によって支えられている。その腕は空中に浮かんでいるのである。

城の中の時間と現実世界の時間とは丁度背中合わせのようになっている。城の中が夜だと現実世界は昼なのだ。そしてこの二つの世界を白馬が行き来する。商人が城から自分の家に戻る時も、末娘が城に赴く時にも、また最後に欲に目のくらんだ男たちが、財宝を手に入れるために城に向かうときにも、この白馬に跨って行くのだ。

野獣は猫の怪物として描かれている。原作では城の王子が変身させられたということになっているが、映画の中ではそういうメッセージはない。猫の怪物がいきなりあらわれて、人間を脅したり愛したりするのである。その怪物と、末娘のベル(ジョゼット・デイ Josette Day)を愛する男アヴナンとを、ジャン・マレー(Jean Marais)が一人二役で演じているのだが、野獣の顔は猫の化け物なので、ジャン・マレーの顔は表面には現れない。彼の顔が野獣の顔として表面に現れるのは、アヴナンと野獣とが入れ替わり、人間となった野獣がベルの愛を獲得する場面だ。(アヴナン自身は石膏像のディアナに弓で撃たれて死に、その際に野獣の姿に変ってしまう)

この映画の映画としての見どころは、野獣が次第にベルの心をとらえるところだろう。この野獣は、野獣らしくもなく、やさしい心の持ち主なのだ。その優しい心でベルに愛を打ち明けるのだが、ベルには野獣が怖くて、愛を受け入れるどころではない。しかし野獣があまりにも優しい心の持ち主で、しかも誠実なので、ベルは次第に心を動かされていくのである。決定的だったのは、病気の父親の世話をするために家に戻して欲しいとベルから懇願された時、野獣はそれを許すばかりか、もしベルが戻ってこなかったなら自分は死ぬ運命だとまでいったことだった。つまり野獣は自分の命をかけて、ベルを父親のところに戻すことを決断したわけで、そのやさしさにベルは感動してしまうのだ。

しかし野獣は、野獣の姿のままでベルと結ばれるわけではない。原作では、野獣は魔法を説かれて人間の姿となり、王子として人間の女と結ばれるということになっているが、コクトーは、ここに第三の男アヴナンを介在させて、野獣とアヴナンとが入れ替わり、アヴナンの姿をした男とベルとが結ばれるということにした。アヴナンとベルはもともと愛し合っていたので、二人の結びつきはある意味自然なわけだが、それではベルが野獣を野獣として愛したことの意味がなくなってしまうともいえる。

映画の中で、ベルは野獣を「野獣(Bête)」と呼び、野獣はベルを「ベル(Belle)」と呼んでいる。だから「美女と野獣(La Belle et la Bête)」という題名は、普通名詞を並べているだけではなく、二人の男女の固有の名前を並べているともいえるわけだ。



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