壺齋散人の 映画探検
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ルイス・ブニュエル「銀河」:フランス人の信仰の欺瞞性



スペイン人として隣国の民フランス人の愚かさや不道徳振りをあばき続けてきたルイス・ブニュエルは、「銀河(La Voie lactée)」では、フランス人の無信仰について、もしそう言ったら言い過ぎになるなら、フランス人の信仰の欺瞞性について暴きだした。もっとも(この映画のなかで描かれた)フランス人はカトリックであるから、その欺瞞性をあばくことは、同じカトリック教徒であるスペイン人に跳ね返ってこないとも限らない。どちらにしてもブニュエルは無神論者なので、その立場から見た宗教の欺瞞性を、この映画のなかで描き出したともいえよう。

筋らしいものはない。フランスのどこかから出発してスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラまで巡礼の旅に出た浮浪者の二人組が、道々体験する奇矯な出来事の羅列からこの映画は成り立っている。この二人はどうやら敬虔なカトリック教徒らしいが、彼らが出会う人々は、カトリックの教義について深刻な疑問を抱いていたり、あるいは宗教そのものに否定的な感情を持っていたりする。その中にはキリスト自身も含まれる。キリストは、母マリアが処女のままの状態で自分を生んだことは、自然の摂理に反したことではなかったかと悩んでいる。そのキリストに向かって、敬虔な信者の一人は、人間の思想も頭蓋骨を破らずに実現するではありませんか、と言って慰める。キリスト自身がこの調子であるから、聖職者や一般の信者に至るまで、宗教の持つ意味は堅固ではない。その堅固でない様子をこの映画はとことんつきつめていくというわけなのだ。

キリストをこのように茶化すことは、カトリックの人々にとっては、許しがたいことだったと思う。だからブニュエルは無神論者のレッテルを貼られ、大分口汚く罵られたようだ。だがそんなことでひるむブニュエルではない。徹底してカトリックの欺瞞性をあばいてゆく。たとえば、三位一体の教義について。この教義はカトリックの本質をなすと言ってもよいものだが、それに対してブニュエルは反対思想をぶつけて論争させる。反対派はプロテスタントではなく、古代の異教徒たちだ。その異教徒がカトリックの司祭に向かって、神は分割できないといって攻撃する。それに対してカトリックの司祭は、神がキリストになり、神とキリストが精霊となったのだといって苦しい答弁をする。

こんな調子の宗教論争が、映画の中で何度も繰り返される。そうした場面を見ても、我々東洋の異教徒には何らの感慨も起らないが、フランス人やスペイン人にとっては、いたく感情を搔きたてられる場面に違いない。とにかくこの映画は、カトリック批判と、それを通じての宗教批判に徹しているのである。我々にとってもわかりやすいのは、放浪の二人組がサンティアゴ・デ・コンポステラについてまずやったことだ。彼らはそこで一人の娼婦と出会い、その女といちゃつくことで、旅の疲れを癒そうとするのだ。日本でも、伊勢や善光寺のような宗教聖地の前には必ず茶屋が並んでいて、旅人の疲れを癒してきた文化的伝統があるから、この場面は非常にわかりやすい。わかりにくいことがあるとすれば、この男たちが娼婦といちゃつくだけではなく、彼女に子どもを生ませることを望むことだ。これもカトリックにはピンとくる涜神行為として映ったに違いないのだ。

ブニュエルは、自分の映画が涜神行為として弾劾されることを恐れたか、最後のところでエクスキューズをしている。「この映画のなかの宗教にかかわる部分はすべて古今の諸文書から引用したものである」、というメッセージを書き入れているのである。こんな小手先の業で、この映画の涜神性がいささかでも緩和されるとは思えないのだが。

題名の「銀河」が何を意味しているのかわからない。映画の中では銀河は映されていないし、銀河とキリスト教徒の間にどのような関連があるのかも、我々のような無学者にはわからない。



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