壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




勝手にしやがれ(À bout de souffle):ジャン・リュック・ゴダール



ジャン・リュック・ゴダールの1959年の映画「勝手にしやがれ(À bout de souffle)」は、フランソア・トリュフォーの同年の映画「大人は判ってくれない」とともに、ヌーヴェル・ヴァーグの嚆矢とされる作品である。トリュフォーのほか、クロード・シャブロールも製作にかかわっているこの映画は、ヌーヴェル・ヴァーグの特徴をもっとも明瞭に発揮したものとして、記念碑的な作品だとの評価が定着している。

ヌーヴェル・ヴァーグといっても明確な定義はないようだが、おおまかな共通点としては、既存の社会秩序に対して鋭い批判意識をもつということが挙げられる。この社会批判意識が1960年代における若者の異議申し立て運動につながったというのが大方の見方である。そういう意味でヌーヴェル・ヴァーグ映画の運動は社会の動きと密接に絡み合っていた。だから、1960年代の末に盛り上がりを見せた社会運動が下火になるにつれ、ヌーヴェル・ヴァーグ映画が収束していったことも不思議には見えないわけである。

ヌーヴェル・ヴァーグ映画には、社会秩序に対して反抗的な人間とか、社会秩序からはみ出した人間を主人公にして、反社会的な行為とか反権威的な言動とかを強調するものが多い。そうした反社会的な行為をする人間のなかでも犯罪者はもっとも典型的な反社会分子である。ここで犯罪者というのは、たまたま犯罪行為をしてしまった人間というよりは、生まれつき犯罪の傾向を持った人間ということである。彼らの行為は我々凡人の目には凶悪な犯罪としか見えないが、彼ら自身にすればごく自然な振舞いなのである。

この映画の主人公ミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は、そうした生まれながらの犯罪者である。高級車を盗んでは乗り回すのが趣味のようで、盗んだ車を運転中に、追跡してきた警察官を殺してしまう。フランス警察は面子に拘ることで有名で、仲間が殺されたとあっては、全力をあげて報復せずにはやまない。そんなわけでミシェルは、警察の追及から逃げ回ることになる。

彼にはアメリカ女のパトリシア(ジーン・セバーグ)という恋人があって、彼女を道連れにして警察の目を逃れる。できたら二人でイタリアに逃げたいと思っているが、パトリシアのほうは仕事を理由に誘いに乗らない。そんな彼女と抱き合ったり反発しあったりするというのが、この映画の主な内容である。筋らしい筋はない。男と女が勝手気ままにもつれあうだけだ。

男は女に惚れているが、女のほうは唯惚れられるだけでは満足しない。男女の間の恋には意味がなければならないと思っている。ところが男は恋に意味なんてものを認めない。人殺しが人を殺すように、恋人たちは恋をするという即物的な見方に徹底している。そんな男に女は不信感を覚える。その挙句男を警察に売る。売られた男は警察に追われた挙句射殺されてしまう。だが彼が殺されたことに大した意味などない。警察はそれで面子を保ったわけだし、男は逃げることの疲労から解放されることになる。それで十分ではないか、そんな虚無的なメッセージが画面からは伝わってくる。

こんなわけでこの映画は、積極的なメッセージではなく、生きることの無意味についての虚無的なメッセージに満ちた作品である。観客はこの映画を見て感動することもないだろうし、感心することもないだろう。

ジャン・ポール・ベルモンドは巨大な団子鼻と分厚い唇がトレードマークで、フランス男としては決してハンサムではないが、どこかに魅力があるらしく、結構いろいろな映画に出ている。ジーン・セバーグは1957年の映画「悲しみよこんにちは」で主人公の少女セシルを演じた際、ボーイッシュな髪型が話題になってセシルカットと呼ばれた。この映画にもその髪型で出ている。





HOMEフランス映画ヌーヴェル・ヴァーグ次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである