壺齋散人の 映画探検
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軽蔑(Le Mépris):ジャン=リュック・ゴダール



ジャン=リュック・ゴダールはヌーヴェル・ヴァーグの旗手として現代フランスを痛烈に批判する映画を多く作ったが、たまには伝統的なテーマを取り上げることもあった。「軽蔑(Le Mépris)」はその一例だ。この映画でゴダールは、フランス女の尻軽という伝統的なテーマに挑んだのだったが、彼が出した結論は、フランス女を尻軽にするのは男に原因があるという、いささか陳腐なものであった。

脚本家のポール(ミシュエル・ピッコリ)とカミーユ(ブリジット・バルドー)は仲のよい夫婦だったが、ふとしたことで仲たがいする。その理由は、ポールが自分のパトロンにカミーユを与えたことだった。金のために自分を売ったと思ったカミーユはポールを激しく軽蔑する。その挙句に、ポールの最初の目論見どおりパトロンのものになってみせる。ことそこに至って夫のポールは大いにあわてるが、もはや手遅れだ。夫が妻をしっかり抱いていないからこんなことになったのだ、妻が尻軽になったのは、この場合専ら夫のほうに責任がある。そういうメッセージが強く伝わってくる映画である。

この映画の中で脚本家のポールは、ホメロスのオデュッセイを現代ふうにアレンジしようとしている。オデュッセイはトロヤ戦争が終わってもすぐ家に戻ろうとしなかったが、それは妻のペネローペが自分を軽蔑し、家庭に安らぎを得られなかったからだ。ペネローペがオデュッセイを軽蔑した理由は、オデュッセイが妻を他の男に与えようとしたことにあった。つまり、オデュッセイの中の妻の軽蔑は、この映画の中の妻の軽蔑のモデルとなっているわけだ。ポールは自らオデュッセイを演じることで、妻の愛を失ったのである。

妻の夫への愛の喪失は一瞬のことだったように描かれている。夫は自分の打算のために妻をパトロンにゆだねたにかかわらず、妻が急に冷たくなったのを見てうろたえる。そこで夫のポールは妻のカミーユに向かって叫ぶ、「夫には妻が不機嫌になった理由を知る権利がある」。フランスの夫は妻に対して法的に強い立場にあるから、もし妻が不倫していれば責める権利があるぞ、と言いたいのだろう。これに対して妻は、「あなたは馬鹿だけど、賢い」と答える。私を売ったことは馬鹿だったけど、わたしの不倫を責めるのは賢いやり方だと言っているわけだろう。痛烈な皮肉である。

カミーユがパトロンを愛していたのかどうか、画面からは伝わってこない。しかしカミーユは夫を捨ててパトロンと去ってしまう。もしかしたら、夫へのつまらぬあてつけだったのかも知れない。面白いのは、夫を捨てたカミーユは、その直後にパトロンとともに自動車事故で死んでしまうのである。これはどういう意味なのか。ゴダールがカミーユに対して下した罰なのか。妻にはどんな理由があっても、夫を捨てて他の男に尻を抱かせる権利はないと。

尻といえばこの映画は、ブリジット・バルドーの尻を大アップで映し出している。この映画の公開は1963年のことだから、すでにスクリーンに女の尻を映すことはタブー視されていなかったが、この映画の場合には、バルドーのふくよかな尻が、それこそ物心崇拝を思わせるような、執拗なタッチで映し出されている。この映画の最大の見所はバルドーの尻にある、と言ってよいほどだ。最もバルドーの尻の割れ目が映るときには彼女の顔は映らないように考慮されてはいるが。

尻に限らずバルドーの身体は魅力的だ。その魅力的な身体をいっぱいに広げて、カプリの海を泳ぐシーンが印象的だ。この時の彼女はすでに三十歳近い年齢だったが、二十歳前後の若い女のような水々しさを感じさせる。

この映画には文字によるクレジットがついていない。クレジットの紹介は、冒頭の部分でスタッフが本を読み上げる形をとっている。これもゴダール一流のやり方なのだろう。





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