壺齋散人の 映画探検
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いとこ同志(Les cousins):クロード・シャブロル



クロード・シャブロルは、ヌーヴェル・ヴァーグ運動に意欲的にかかわった一人で、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーとは協力関係にあった。非常に多作な作家だったが、1959年の作品「いとこ同志(Les cousins)」が彼の代表作である。

原題にあるとおり、男のいとこにまつわる話である。パリで一人暮らしをしているポール(ジャン=クロード・ブリアリ)のもとにいとこのシャルル(ジェラール・ブラン)が田舎からやってきて同居を始める。二人ともパリ大学の学生だが、ポールが都会的なセンスにあふれているのに対して、シャルルのほうは田舎者である。この対照的な二人が、一人の女性フロランス(ステファーヌ・オードラン)をめぐって恋のさやあてをしたり、いかがわしい友人たちとドンちゃん騒ぎをしながら、青春の日々を送る、というのが映画のメーン・プロットだ。

この映画がヌーヴェル・ヴァーグの傑作の一つに数えられているのは、生きることの意味についてきわめてシニカルな見方をしている点だろう。ヌーヴェル・ヴァーグの映画に共通するのは、社会に対する鋭い批判意識が不道徳な行為という形をとって表れるところを描くことにあるが、この映画の中の登場人物は学生であるから、道徳性とはあまり縁がない。彼らの行為は、まともな大人がすれば不道徳に映るが、青二才たちがやることだから、多少軌道を外れたくらいにしか見えない。そんな無軌道といえる青二才たちの生き方を、この映画は淡々と描く。

この映画のミソは、同じ女を二人の男が好きになることだ。その女はもともとポールと出来ていたのだが、後からやって来たシャルルが横恋慕する。女もシャルルの愛に応えようとするが、それをポールが邪魔する。彼なりに嫉妬という感情をもてあましているのだ。そこでシャルルではなく、女を口説いて、別れさせようとする。その言い分がすごい、「お前はこれまで数多くの童貞破りをしてきたくせに、いまさら処女を装って若い男をだますつもりか」というのである。女はこの言葉に怒るでもなく、ポールとの関係を優先させる。それを知ったシャルルはショックを受けるが、女がポールから払い下げになるのを期待して、順番待ちをすることにしようと、いかれたことを言う。

ポールは、いかがわしい仲間を部屋に呼んで、ドンちゃん騒ぎをする。乱交パーティのようなものだ。そのパーティを盛り上げるのに使われる音楽がワグナーだ。ポールはワグナーを、「ヴァグネール」とフランスふうに発音する。ポールは毎晩こんな具合に遊んでいるが、肝心なときには要領のよさを発揮する。大学の試験にはカンニングを駆使して合格する。ところがシャルルのほうは、猛勉強して試験に臨んだにかかわらず、落第の憂き目を見る。何から何まで、ポールの抜け目なさに対比して、シャルルは要領が悪いのだ。だから要領のいい奴に好きな女を取られるのも無理はない、といったメッセージが伝わってくる。

シャルルは要領悪さのついでに、ポールによって拳銃で射殺されてしまう。その拳銃には一発だけ弾が込められていて、しかもそれを込めたのはシャルル本人なのだが、その本人が自分でその弾を浴びてしまうのである。シャルルはだから、とことん間抜けな奴という具合に描かれている。

彼ら二人に愛されたフロランスは、まだ二十歳の女学生だが、摺れている点では男たちに劣らない。彼女は、ポールと交際している間にも他の男に二股をかけている。だからポールから童貞破りだなどと罵られるわけである。フランス女の尻軽ぶりは世界的に有名だが、彼女らの尻の軽さは生まれつきだ、そんなメッセージも伝わってくる。

こんなわけでシャブロルも、ヌーヴェル・ヴァーグの列に序して、フランス人によるフランス人の不道徳ぶりに対するいかにもフランス的な自己省察を、この映画の中で試みている、そんなふうにみえる。

なお、映画のはじめのほうのところで、ポールがシャルルに向かって、「俺たちの祖先はフランク人だ」と叫ぶシーンがある。たまたまその場に居合わせた三人はみな髪が黒い。髪が黒いフランス人はフランク人の子孫ということなのだろうか。それに対してアルチュール・ランボーのようなブロンドの髪は、ケルト人のはしくれたるガリア人の子孫と観念されていたらしい。





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