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ミケランジェロ・アントニオーニ「さすらい」:女に捨てられた男の悲哀



ミケランジェロ・アントニオーニの1957年の映画「さすらい」は、女に捨てられた男の悲哀を描いた作品だ。これをアントニオーニは自分自身の経験をもとに作ったという。彼は最初の妻からいきなり別れを告げられ、気が動転したそうだが、その折の自分の気持をこの映画で表わしたというのだ。この映画が独特の切迫感と哀愁を以てせまってくるのは、そうした生きられた体験のもたらすところらしい。

この映画を見ていると、イタリア男の頼りなさがよく伝わってくる。イタリア男ほど女に対して威張り散らすものはないといわれるが、それは彼らの自信のなさを反映したものだということが、この映画を見るとよくわかる。イタリア男は自立しておらず、女なしでは生きていけない。イタリア男が女に威張り散らすのは、そうした自信なさをカムフラージュするためなのだ。だから彼らは女に捨てられるとパニックになる。女なしでは、どう生きていったらよいか、わからなくなるのだ。

この映画の主人公アルド(スティーヴ・コクラン)は、北イタリアの小さな村で、内縁の妻(アリダ・ヴァリ)と彼女に生ませた娘とともに、彼なりに幸福に暮らしていたのだったが、ある日突然その妻から離別を告げられる。妻は色々言い訳めいたこともいうが、何故そうなったのか彼には思い当たらない。その挙句妻に向かって暴力を働く。それ以外どうしていいかわからないのだ。

妻に暴力を働いたことで、村に居られなくなったアルドは、幼い娘を連れて放浪の旅に出る。これが彼らの「さすらい」なのだ。その旅の途中でアルドは、何人かの女たちと出会う。別の新しい女と仲良くなれば、あるいはこれから先生きていく自信が沸くかもしれない。

というわけで、アルドは、昔付き合っていた女を手始めに、何人かの女たちと出会うが、なかなかしっくりしないものを感じる。妻が忘れられないのだ。そのうち、不憫に思っていた娘を妻のもとに送り返し、一人でさすらいを続け、なんとか妻なしでやってゆけるように努力するのだが、その努力はつねにからぶりに終わる。やはり妻が恋しくてたまらないのだ。

久しぶりに村に戻ったアルドは、空港の収容をめぐって当局と対立している村民たちを見る。村民は土地を取り上げられまいとして、必死になって戦っている。また妻の住んでいる家にも行ってみる。そこで彼は、生まれたばかりの赤ん坊の世話をする妻の姿を見てショックを受ける。妻が別の男のために子を生んだのだ。もはや妻の暮す家には自分に残された空間はない。絶望したアルドは、昔勤めていた工場の見張り塔に登り、そこから飛び降り自殺をしてしまうのだ。

アルドはなぜ、自殺しなければならなかったのか。生きてゆく気力を失ったからだ、というのがその答えだが、それにしてはあまりにも短絡的ではないのか。女に捨てられたくらいで自殺する男は、イタリア以外ではめずらしい。日本なら決して現われないといってよい。女とともに生きていけないから一緒に心中するという話は五万とあるが、女に捨てられたからといって独りで死ぬ男は、日本のような文化風土では存在しないものだ。

この映画の醍醐味は、中年男が幼い娘を連れてさすらう姿だ。そんな男の姿に魅力を感じ、セックスをせまる女も現われる。しかし、子連れでは男女の愛は実らないとばかり、男は新たな生活を築くことができない。そのへんは、妻への慕情が働いているにしても、子を連れた中年男が自立していないことに本質的な理由がある。

とにかくこの映画を見ると、イタリア男の不甲斐なさがよく伝わってくる。そのイタリア男をアメリカ人のスティーヴ・コクランが演じているのが面白い。女を連れた男の放浪を描いたものとして「道」があるが、「道」でもやはり、メキシコ人のアンソニー・クィンがマッチョな男を演じていた。「道」のなかの女と、この映画の中の幼い娘が、男の無聊感を慰める役柄として、光った演技をしている。

妻を演じたアリダ・ヴァリは、「第三の男」でオーソン・ウェルズの情婦役をしていた。有名なラスト・シーンでのクールな印象が強烈だが、この映画のなかでもクールな女の雰囲気をよく出している。




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