壺齋散人の 映画探検
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パゾリーニの映画:作品の解説と批評


ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)は、イタリア映画の巨人というにとどまらず、世界の映画史に屹立する奇才だった。彼の映画は、それまでの映画の常識をあざ笑うかのように、人間の本来の姿を赤裸々にあぶり出した。それがあまりにもグロテスクなので、観客はどう受け取っていいかわからなかったが、それでも笑うことには差し支えなかった。実際パゾリーニの映画は世界中の人々に見られたのだが、どの国の国民も、言葉を超えて、彼の映画の豊穣さに圧倒されるとともに、笑いの発作に巻き込まれたのであった。人間をそんなふうにさせるのは、天才をおいて他にはいない。

パゾリーニの映画といえば、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「アラビアン・ナイト」のいわゆる「生の三部作」と呼ばれるものが有名である。これらは、ヨーロッパ中世あるいはササーン朝ペルシャの説話集を原作としたもので、説話の持つ猥雑かつ旺盛な雰囲気がよく発揮されている。パゾリーニ自身は「生の三部作」という呼称を好まなかったが、生命謳歌という点では、まさにその呼称に相応しい作品といえた。

パゾリーニは、脚本家としてスタートし、フェリーニの有名な映画「カビリアの夜」の脚本を手がけたりしたが、監督に転ずると、主に有名な文芸作品を映画化することを好んだ。聖書は厳密な意味では文芸作品とはいえないが、しかし小説的な要素も持っているので、それを映画化した「奇跡の丘」も、ある種の文芸映画といえよう。これはパゾリーニの出世作となったもので、「マタイによる福音書」をほぼ忠実に映画化したものである。

その後、ソポクレスの戯曲「オイディプス王」を映画化した「アポロンの地獄」や、やはりソポクレスの戯曲を映画化した「王女メディア」を作ったが、ここまでのところは、パゾリーニの作風はシリアスで堅実といえるものだった。

ところが、「デカメロン」では一転して、猥雑で祝祭的な雰囲気を謳歌するという作風に変わった。これは原作自身のもつ猥雑性がそのまま映画に反映したということもあるが、しかしパゾリーニの中にあった猥雑さへの嗜好性が爆発したという面もあったのではないか。「カンタベリー物語」では、そうした猥雑性に加え、セクシュアルでスキャンダラスな要素が加わり、人びとの度肝を抜くような爆発的エネルギーを感じさせたものであった。

「アラビアン・ナイト」は、イスラム世界の説話であり、もともとヨーロッパ人の異国趣味を掻き立てたものだったが、パゾリーニはその異国趣味を最大限に発揮させたので、映画は、ともすれば荒唐無稽に陥りそうなところを、なんとか、腹を抱えながらも楽しむことができるように作られている。

遺作となった「ソドムの市」は、マルキ・ド・サドの小説が原作とあって、「生の三部作」におけるような要素を共有していると思われる。だが、原作をそのまま映画化したわけではなく、現代イタリアに舞台をかえて、ファシストによる児童虐待を想起させるよう作られていた。しかもその描写ぶりは、常軌を逸した残忍さにあふれており、人に嫌悪感を覚えさせるようなものであった。これは、折から台頭しつつあったネオ・ファシストへの批判を込めたものと言われたが、そのことでネオ・ファシストの激しい怒りをかい、殺されたと推測される。ともあれパゾリーニは、自分の信念にしたがって映画を作り、そのために命を失ったとしても、本望だったのではないか。

ここではそんなピエル・パオロ・パゾリーニの代表的な作品を取り上げ、鑑賞の上適宜解説・批評を加えたい。


パゾリーニの映画「奇跡の丘」:マタイ伝によるキリスト

パゾリーニの映画「アポロンの地獄」:ソポクレスの悲劇「オイディプス」を映画化

ピエル・パオロ・パゾリーニ「王女メディア」:ギリシャ悲劇を映画化

ピエル・パオロ・パゾリーニ「デカメロン」:ボッカチオの小話集

ピエル・パオロ・パゾリーニ「カンタベリー物語」:チョーサーの猥褻小話集

ピエル・パオロ・パゾリーニ「アラビアン・ナイト」:不徹底な猥褻さ

ピエル・パオロ・パゾリーニ「ソドムの市」:史上もっともスキャンダラスな映画




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