壺齋散人の 映画探検
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ロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」:対ナチス・レジスタンス



ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)の映画「無防備都市(Roma città aperta)」はネオレアリズモの古典と言うことになっているが、筆者の眼にはレジスタンスを描いた極めて政治的な映画だというふうに映った。これは、ナチスによるイタリア支配に果敢に立ち向かっていった勇気ある人々の崇高な行為を描くとともに、彼らを抑圧するナチス・ドイツの悪魔のような残虐さを告発した作品だ。これを見ると、人間というものは、限界状況に直面すると、神のように崇高にもなれれば、悪魔のように残虐にもなれるという、人間の矛盾したあり方について、それこそ残酷なまでに考えさせられる。今見ても、ものすごい迫力が伝わってくる映画だ。

実際、この映画は世界中に大センセーションを巻き起こした。公開された1945年は、ヨーロッパでの戦争が終った直後でもあり、戦争の記憶が生々しかったところに、この映画は、人々の辛い記憶をさらに辛くかきまぜるような効果をもたらしたのである。とりわけナチスの残忍さを描いた部分は、ナチスによって抑圧された経験を持つ人々に強い情動的な反応を呼び起こしたに違いない。この映画は、ローマがナチスによって占領された時期に、どのようなことが起こったかについて描いているのだが、その起こったことと言うのは、ドイツ人によるイタリア人への血の迫害という事態だったので、この映画を見た人々は、ナチス・ドイツへの憎しみを改めて掻き立てられたに違いない。

そんなこともあって、この映画は、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツへの評価にかなり大きな影響を与えたフシがある。

映画は、ローマがナチスによって占領された9か月間を描くとしたうえで、登場人物も出来事もみなフィクションだとわざわざ断っているが、この映画を見た人は、これを実際に起きたことだと受け止めたに違いない。ナチスの支配に対して抵抗運動をするローマの人々と、支配者としてそれを弾圧しようとするナチス及びそれを手助けするイタリア人たち。こうした構図は、ナチス占領下のイタリアでは、日常的に見られただろうから、観客がこの映画を準ノンフィクションと受け取ったのは不思議ではない。

映画は前後二段からなっている。前段ではレジスタンス運動にかかわる人々の日常の生活が描かれる。レジスタンス運動の指導者としてナチスの追跡を受けるマンフレーディ(マルチェロ・パリエーロMarcello Pagliero)、彼の逃走を助ける印刷工のフランチェスコ、フランチェスコの婚約者で子持ちの未亡人であるピナ(アンナ・マニャーニAnna Magnani)、レジスタンス運動を陰で支えているピエトロ神父(アルド・ファブリーツィ Aldo Fabrizi)。この四人を中心に、ナチスとレジスタンスとの戦いが描かれていくが、その過程でフランチェスコがナチスに逮捕され、護送車で連れ去られそうになる。驚いたピナはその後を追っていく。走って追ってくる彼女に向かってナチスの兵士がピストルを撃つ。撃たれたピナは衝撃で空中に浮かびあがり、飛ぶようにして地面に倒れる。この場面がものすごい迫力を以て観客の眼を引きつける。映画史上最も印象的な場面だといえる。

後段では、仲間のパルチザンの働きによってフランチェスコらは逃走に成功するが、その後、マンフレーディとピエトロ神父がナチスによって拘束される。それは、マンフレーディの愛人であるマーリが、彼らの動向について密告したせいなのだった。この女は、この厳しい時代に生きて行くには、多少汚いことをするのは仕方がないと考えている。彼女にとっては、恋人を売るのも、生きて行くうえでは許されることなのだ。

ナチスは、マンフレーディがレジスタンス運動のリーダーであることを知っており、彼の口からレジスタンス運動の全貌を聞きだそうとする。彼らは、イタリア人は拷問をすれば簡単に吐くと信じているのだ。しかしマンフレーディはついに吐くことなく絶命する。その死体を見たマーリは、自分のしたことの意味を改めて思い知らされる。

この、ナチスによるマンフレーディの拷問の場面が後段のハイライトである。拷問の責任者はゲシュタポの司令官だ。この司令官は、ドイツ人は優越した民族であり、イタリア人は劣等民族だと信じ込んでいる。劣等民族には誇りというものがないから、多少の拷問を加えれば簡単に白状するに違いないと思い込んでいる。だから、マンフレーディがなかなか白状しないのをみると、それは拷問がまだ甘いせいだろうと考え、もっと強くやれと命じる。こうしてマンフレーディを絶命に追い込むのである。

この司令官は、人間的な感情とは無縁な、それこそ悪魔の化身のようなものとして描かれている。この司令官には女スパイがついているが、このスパイがマーリを唆してマンフレーディらの情報を提供させるのである。この女も、人間的な感情を持たない、魔女として描かれている。又彼らによって使役される下級の者たちも、悪魔の手下として、残虐な行為を平然と行う鬼のような連中として描かれている。要するに、ナチス・ドイツというのは悪魔の集団だというメッセージが、この映画には充溢しているのである。

戦後ナチスの戦争犯罪が裁かれた時に、裁くものはナチスの行為を悪魔の仕業だと言った。悪魔でなければ、こんなにも残虐な行為ができるわけがないというわけである。そうした見方に、この映画は一定の影響力を持ったのだと思う。この映画の中に出てくるゲシュタポの司令官は、殺人行為をまるでゲームのように楽しんでいる。ナチス・ドイツが犯した無数の戦争犯罪は、こうした悪魔のような連中によってなされたに違いないのだというわけである。

そんな連中だから、聖職者である神父まで平気で殺すことができたのだ。映画のラストシーンはピエトロ神父が銃殺されるシーンで、殺される神父を子どもたちが不安そうな眼差しで見守っていたが、この眼差しこそが、この映画の題名を象徴しているかのようであった。Roma città aperta とは、ナチスの暴力に対して無防備な都市ローマという意味なのである。



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