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ロベルト・ロッセリーニ「戦火の彼方」:パルチザン部隊の対ナチス戦



「無防備都市」で反ナチスのレジスタンスを描いたロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)は、翌1946年に連合軍とパルチザン部隊の対ナチス戦を描いた「戦火の彼方(Paisà)」を作った。連合軍によるイタリア制圧は、1943年7月9日のシチリア上陸から1945年5月のイタリア全土解放まで二年近くの期間を要したわけだが、それは、ナチスドイツ軍の反撃がすさまじかったからだ。この反撃に対して、イタリアのパルチザン部隊が連合軍と協力しながら立ち向かった。この映画は、そのパルチザン部隊の視点と、連合軍の視点とを交差させながら、正義は連合軍側にあり、不正義はナチスドイツ側にあると訴えたものだ。「無防備都市」もかなり政治的な映画だったが、この映画もそれに劣らず政治的だと言えよう。

ロッセリーニがこのような映画を作り、それがイタリア人を始め世界中から評価されたのは、どういうわけか。イタリアと言えば、日本やナチスドイツと同盟を結んだ枢軸国であり、第二次世界大戦での敗戦国である。だから通常の歴史感覚からいえば、イタリア人は連合国軍に破れたということになるわけだが、この映画ではイタリアのパルチザン部隊が連合国軍と協力してナチスドイツと戦ったというような形になっている。それのみではない、この映画には当然ファシスト政権の支持者も出てくるわけだが、こうした人物たちも、民衆の敵というような位置づけを与えられている。こんな訳でこの映画は、ごく単純化していえば、民主主主義勢力とファッショ・ナチスの全体主義勢力との戦いというような色合いを強く持たされているわけである。

イタリア人のロッセリーニが、イタリア敗戦の直後にこのような映画を作り得たのは、イタリア人の中に反ファシズムの強い流れがあり、それが連合国軍のシチリア上陸以来、連合国軍と協力しながら全体主義勢力と戦った、という歴史的事実があったためだろう。でなければ、敗戦国の映画人が、自国の敗戦を正義として受け入れるなどと言うようなことはありえなかっただろう。同じ敗戦国でも、日本やドイツではこのような映画は決して現れなかったし、また現れようもなかったのである。

この映画は、一貫したストーリーではなく、いくつかの挿話を集めたオムニバス映画の形をとっている。その挿話とは、1943年7月9日の連合国軍によるシチリア上陸に始まり、連合国軍がイタリアを北上しながら次第に全土を開放していく過程で起こった六つの出来事を語ったものである。挿話同士には相互の関連はない。共通するのは、連合国軍がナチスドイツを追い詰めながらイタリア半島を北上しているという舞台設定だけである。

第一の挿話は、シチリアに上陸したアメリカ人部隊が、現地の娘に案内されて敵情視察に出かけるシーンを描いている。敵情視察の途上、アメリカ人部隊は二手に分かれる。本体は前進し、一部は不測の事態の連絡役として一地点に残る。そこへドイツ兵が現れて、残ったアメリカ兵と娘を殺すというものだ。娘を殺したドイツ兵は、皆で娘をレープする相談をするなど、鬼畜のような徒輩として描かれている。

第二の挿話は、ナポリが舞台だ。アメリカの黒人兵と現地の浮浪児との奇妙な友情を描いている。この浮浪児は、ナチスによる爆撃で、両親を殺されてしまったというのだ。

第三の挿話は、解放後のローマが舞台だ。解放直後、アメリカ人兵士が、ローマのある娘と知り合いになる。ところが何か月後にこの娘と再会したところ、この娘は街娼になっていたというものだ。この時代に生きて行くには、何でもしなければならないというようなメッセージが伝わってくるシーンだ。

第四の挿話は、フィレンツェが舞台だ。アルノ川を挟んで、南部はパルチザン、北部はナチスドイツが制圧して互いに主導権を争っている。そんな中で、北部に住んでいる家族を訪ねるため、あるいは恋人の安否を確認するため、男女が身の危険を冒して北部に潜入する。その過程で、彼らと関わり合いになったパルチザンの人々の戦いぶりが描かれる。この場面でもっとも印象的なのは、廃墟と化したフィレンツェの街だ。

第五の挿話はゴシックラインに位置するある修道院が舞台だ。その修道院に三人のアメリカ人従軍牧師が宿を乞いにやって来る。三人の牧師のうち、一人はカトリック、ひとりはプロテスタント、もうひとりはユダヤ教徒だ。修道院の僧侶たちには、プロテスタントやユダヤ教徒は、悪魔に魂を抜き取られたとしか思えない。そんな修道僧と従軍牧師たちの心の交流を描くというのが、この挿話の主題だ。

第六の挿話は、ポー川流域で展開される連合国軍とドイツ軍との戦いを描く。この地域はまだドイツ軍の勢いが強く、連合国軍側は苦戦を強いられている。そんな中で、ある部隊が孤立する。その部隊は現地のパルチザンの協力を得て、なんとか窮地を脱しようと努めるが、うまくいかず、結局ドイツ軍の捕虜になってしまう。ドイツ軍は、連合国軍に属する正規の兵士は、捕虜に関する国際条約に基づいて処遇すると言うが、パルチザン部隊については、そのような縛りがないことを理由に、ことごとく殺してしまう。その殺し方は、拷問に近いようなむごい殺し方だった。もっと衝撃的なのは、彼らが殺された直後に、イタリア全土が解放されたという知らせが入ってくることだ。

「無防備都市」では、ゲシュタポの将校による非人間的な拷問を通じてナチスドイツの残虐さを強調していたが、この映画では、ドイツ人全体が恥知らずの人非人として描かれている。まだ戦争が終ってから間もない時期の映画だから、多くの人々には、ドイツ軍によって蒙った苦痛が生々しく残っていた。それで、このような見方もそんなに不自然には映らなかったのだろう。

なお、原題の Paisà は、同胞という意味のイタリア語だ。誰と誰が同胞なのか、またどういうつもりでこのような題名をつけたのか、スクリーンからはよくわからない。



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