壺齋散人の 映画探検
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ルキノ・ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」:ナチス台頭期の権力争い



ルキノ・ヴィスコンティの1969年の映画「地獄に堕ちた勇者ども(The damned)」は、ハリウッドのワーナーの金で作った映画で、オリジナルは英語である。俳優もダーク・ボガードやイングリッド・チューリンはじめ、ハリウッド俳優だ。テーマは、ナチス台頭時期における、大財閥内の権力争い。財閥は、鉄鋼界のクルップをモデルにしていると言われるが、事実とはかなり異なった脚色をしている。というのも、ナチス台頭期にクルップを率いていたグスターフは、ナチスに協力して戦後まで生き残り、ニュルンバルグ裁判でも戦犯指名されているが、映画のなかでは、権力を狙うものたちによって殺害されたことになっている。もっとも、クルップという名は出てこないし、一応架空の話というような扱いになっているのだが、しかしドイツの歴史を知っている者にとっては、そういう扱いはある程度の違和感を持たされるところだろう。

この映画は、歴史を全く無視して、純粋な創作として見るという見方もあるだろうが、一応ナチス台頭期における権力争い、それは国家規模と企業内とにまたがるわけだが、そういうものを見せられれば、やはり歴史の事実を意識せざるを得ない。となれば、ナチス台頭期において、ナチス内部にも権力争いがあって、まず最初にナチスの権力基盤となった攻撃隊を、ヒトラーが邪魔に感じるようになって、ついには殲滅したという歴史的な事実の流れを、頭に入れながら見ないと、この映画の本筋を見失うことになろう。

映画では、エッセンベック(クルップがモデル)の当主は、ナチスに対して両義的な態度をとっているということになっている。そのエッセンベックを、重役の一人フリードリヒ・ブルックマンが暗殺し、自分が後継者になろうとする。その男は、当主の息子の未亡人ゾフィーを誘惑し、彼女と結婚することでエッセンベック性を名乗り、名実ともにエッセンベックの支配者になろうとするのだ。それを実現するうえで、大きな役割を果たすのが、ナチスの親衛隊員アッシェンバッハだ。アッシェンバッハは、フリードリヒを通じて、エッセンベックにナチスへ協力させようとする。しかし、フリードリヒは融通のきかない人間らしく、し烈な権力争いを勝ち残ることができない。かれはナチスのなかでも攻撃隊と親しかったのだが、それが災いして、攻撃隊がヒトラーによって殲滅させられたことが契機となって、没落することになる。その没落を早める働きをしたのは、ゾフィーの息子で、当主エッセンベック家の嫡男マルティンだ。

このマルティンという男は、かなり異様に描かれている。映画の最初のパーティのシーンでは、おかまに扮してあやしげな歌を歌うし、また知能も遅れているような印象を与える。とても一族内の権力争いをコントロールできるような鋭さは感じさせない。それに変態趣味もあるらしく、ユダヤ人の小さな少女を強姦して死なせてしまったりもする。もっともその場面は、小生の見たDVD版では出てこなかった。このDVDは、オリジナルなものより10分程度短いので、カットされた部分に少女の強姦場面があったのだろう。

このマルティンが次第に権力意識に目覚め、一族の権力を簒奪したフリードリッヒと、かれとくっついた母親とを激しく憎むようになる。その憎しみは尋常ではなく、かれは母親を辱めるために、マザーファックまでするのだ。母親としては、自分の腹から生まれた息子に、無理やり入ってこられたということになるが、まあ息子のことだから、憎むわけにもいかず、ただ惨めな気持ちになるだけというわけだ。

マルティンは、自分自身が親衛隊員となって、ついにフリードリヒと母親に死を与える。フリードリヒは、巨大企業を簒奪しようとして果たせなかったわけである。そのへんの筋書きは、王国を簒奪しようとして、ついには身を滅ぼしたマクベスの物語を意識しているという。またハムレットも意識しているようだ。皇后が叔父による王殺害に手を貸し、父親を殺されたハムレットが復讐をするという筋書きが、この映画のなかでも生きている。つまり、マルティンはハムレットの分身と言える扱いなのである。そういえば、両者には狂気という共通点がある。もっとも一人はそれを装い、一人は実際の狂気に陥ったわけだが。

原題は「呪われたもの」という意味。それにワグナーの「神々のたそがれ」を副題としてかぶせてある。邦題の「地獄に堕ちた勇者ども」というのは、どういうつもりで付けたのか。



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