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ルキノ・ヴィスコンティ「異邦人」:カミュの小説を映画化



ルキノ・ヴィスコンティの1967年の映画「異邦人(Lo Straniero)」は、アルベール・カミュの同名の小説を映画化したもの。この有名な小説を、小生は学生時代に読んだのだが、内容はあらかた忘れてしまった。だから原作を気にせず、ただの映画として見た次第だが、冒頭部分でマルチェロ・マストロヤン演じるムルソーが「ママン」とつぶやくシーンと、かれがピストルの引き金を引いたのは太陽の光線のまぶしさに驚かされたためだったというシーンは、わずかに原作の雰囲気を思い出させてくれた。この二つのシーンは、原作の内容を象徴するシーンとなっているようなので、ヴィスコンティはその雰囲気を巧妙に演出することに成功したわけだ。

映画の大半は、ムルソーのアラブ人殺害をめぐる裁判の様子を描くことに費やされる。その前段としてムルソーがアラブの青年を射殺したシーンが紹介され、締めくくりとして、かれの有罪判決が下され、死刑が執行される様子が映される。原作の趣旨は覚えていないが、映画は殺人事件をめぐる裁判劇の体裁を呈している。

その裁判というのが実に不可解なのだ。殺人事件の裁判というのは、日本のような国では、物証によって事実を明らかにし、その事実に基づいて罪状・量刑が決まる。殺人という重要な事件であれば、その立証には厳密性が求められ、あくまでも客観的な証拠に基づいて罪状が判断されねばならない。ところが、この映画の中の裁判は、殺人という行為についての事実認定は軽視され、被告の人格に注目が集中する。被告の人格が異常であれば、事実が多少明らかでなくても、有罪とするには十分なのだ。日本でも、状況証拠にもとづいて判断がなされる場合があるが、その場合でも、あくまでも事実が強調される。ところが、この映画の中の裁判は、事実そっちのけで、被告の人格の異常さが問題とされるのだ。

被告の人格の異常さは、母親の死を悲しんでいないこと、また、神を信じていないことによって代表される。さまざまな証言から、被告は死んだ母親に対して、息子に相応しい悲しみの感情を示していなかった、これは人道に反することである。また、被告の無神論的傾向は、(キリスト教・イスラム教を含めて)一神教の社会では許し難いことだ。この二つの事実だけで、被告は死刑になるに値するのだ。殺人の動機やその行為の詳細については、とやかく問題とするに及ばない。被告は、道徳的・宗教的な理由に基づいて極刑に処せられるべきなのである。

文明国の市民には信じられないようなことである。この映画の舞台はアルジェということになっているが、裁判はアルジェリアの宗主国であるフランス人が管轄している。そのフランス人が殺人事件を裁くについては、基本的にはフランスの刑法を適用するのだと思うが、法廷がアルジェリアにあり、被害者がアラブ人ということもあって、裁判官はアルジェリア的な価値観にも配慮しなければならない、といったような雰囲気が多少は伝わってくる。

原作のタイトルでもある「異邦人」とは、ムルソーの境遇を象徴した言葉だ。かれはフランス人ではあるが、アルジェで生まれ育ったおかげで、本物のフランス人でもなく、かといってアルジェリア人でもない。そういうのをフランス語ではクレオールというが、クレオールの中には、出身国・滞在国双方に根を持たないと感じる人がいる。そういう人は出身国でも、滞在国でも、自分はその一員ではなく、排除されていると感じる。その感じは異邦人のものだ。

そんなムルソーに、カトリックの坊主が近づいてきて、キリストへの信仰を勧める。だがかれはキリストを信じるなんて馬鹿げていると答える。そのムルソーの答えは、カミュ自身の本音だったと解釈されている。カミュは無神論者だということを隠さなかった。かれが無神論者になったのは、アルジェリアに生まれ育ったフランス人のクレオールだったからだ。アルジェリアに生まれ育ったから、カトリックといってもぴんと来ない。周囲にカトリック信者がいないからだ。また、イスラムを信じる気にもなれない。その結果、神というものを信じられなくなっている。

神を信じない人は日本のような国では珍しくはなく、またそのことで不便をこうむることもないが、キリスト教社会やイスラム社会においては、許容できない人間なのだ。だからそういう人間は自分を「異邦人」と感じざるをえない。

マルチェロ・マストロヤンニが、珍しくシリアスな演技をしている。かれの芸風の幅広さを感じさせる作品だ。



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