壺齋散人の 映画探検
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今村昌平「豚と軍艦」:横須賀の米軍基地に寄生する男女



今村昌平の持ち味を重喜劇と評したのは佐藤忠男だが、なかなか言い得て妙である。喜劇と言えば、笑うべき事態を軽く笑い飛ばすというのが本分だと誰もが思うだろうから、重喜劇と言われると、形容矛盾のようにも聞こえる。笑えない現実を、無理に笑いとばそうとする気負いのようなものを感じさせるからだ。だが、今村昌平の作品にみなぎっているのは、こうした気負いのようなものなのかもしれない。

この映画は、米軍基地の街横須賀を舞台にして、米軍に寄生して生きている男女を描いている。公開されたのは1961年のことで、敗戦から16年経っており、日本は高度成長期に入って、戦争の記憶がようやく薄らぎつつあった時期だが、横須賀には大規模な米軍基地が居座って、米兵があちこちに闊歩し、まるで被占領地のような光景を呈していた。その被占領地で、敗戦国の国民たる日本人が、戦勝国の兵士たるアメリカ人に寄生し、ずぶとく生きている。そんな、たくましさというか、いじけさというか、情けなさというか、複雑でかつ単純明快な日本人男女の生き方を描いたのがこの映画なのである。

題名にある豚と軍艦にはどちらにも米軍の影がさしている。というか米軍そのものである。軍艦は申すまでもなく、横須賀を母校とする米軍の艦船をさすのだし、豚のほうは米軍の排出する残飯で養われている豚のことをいう。この映画の主人公であるやくざの集団は、この豚の飼育をサイドビジネスにしているというわけなのだ。ヤクザも米軍の恩恵を受け、女たちも米兵の妾=パンパンとして生きにくい世の中を何とか生きている。この映画は、ある意味で、日本の一部をいまだに軍事占領しているアメリカという国に対する、奇妙奇天烈なオマージュなのである。

映画の主人公は、長門裕之演じる欣太というヤクザのチンピラである。彼が身を寄せるヤクザの集団は、米兵相手の売春を営んでいたが、それが当局に摘発されたので別の資金源を求める。そこで目を付けたのが、米軍の放出する残飯を安く買い取り、それで養豚を営むことであった。ヤクザが養豚と言うのもダジャレのようなものだが、この映画全体がダジャレのようなものなのだ。ともあれ、欣太は豚の面倒を見ることを命じられるのだ。

欣太には吉村実子演じる春子という恋人がいる。春子は米兵相手のバンドの口入れ屋のようなことをしている。家は貧しく、姉や母親は春子を米兵の妾にしようとしている。しかし春子は、そんな堕落した生き方はしたくないと思っている。彼女の夢は、恋人の欣太といっしょに、ささやかながら堅実な生き方をすることなのだ。

欣太の属するヤクザの組織は徹底的にカリカチュアライズされて描かれている。流れ者のヤクザにたかられてそいつを殺したはいいものの、死体の処置に困って豚の餌として食わせたり、その豚の肉を自分たちが食ったと知って、食ったものを吐きだしたりといった具合だ。映画の大部分は、この間抜けなヤクザどもに欣太が振り回されるところを描く。

間抜けなヤクザどもの中で最も印象に残るのは、丹波哲郎演じる兄貴分だ。これは流れ者のヤクザを殺したりと、一家の親分三島雅夫より貫禄があるのだが、吐血に悩んでいる。そしてその原因をガンだと思い込むようになる。実は胃潰瘍なのだが、そこはマヌケのこと、自分でそう信じ込んだ挙句、他のヤクザに殺してくれと依頼する。人を殺すことはできても、自分を殺す気概はないのだ。

春子は欣太と一緒に川崎で所帯を持ちたいと思い、何度も欣太を促すが、欣太は言うことを聞かない。頭にきた春子は自暴自棄になって、キャバレーで米兵たちとどんちゃん騒ぎをする。その挙句、酔いつぶれところを三人の米兵に拉致されて、輪姦されてしまうのだ。でも、ただでは起きない。米兵のポケットからドル札を抜き取って逃げる。しかし、可哀そうなことに、ついにはつかまって豚箱に入れられてしまうのだ。

米兵に強姦されたくらいで、春子の意気は消沈しない。かえって意気軒昂になって、ずぶとく生きてやろうという気持になる。そこで、もう一度欣太にモーションをかけ、二人で駆け落ちしようと迫る。このままだと、春子は永遠に自分から離れて行ってしまうと恐れた欣太は、ついに春子の言うことを聞く気になる。だが、その前に、組のためにひと働きしなければならない。

米軍からの残飯の放出を受けられなくなったヤクザの組織が仲間割れを起こす。どちらも、豚を独り占めして売り飛ばそうと考えている。その一方から、欣太は豚の輸送の仕事を言いつけられる。しかし、他方のほうも、相手を出し抜いて豚を持ち去ろうとする。そのいさかいに欣太は巻き込まれ、ついには死んでしまうのだ。

その、欣太が死ぬシーンが、この映画の最大の見どころだろう。豚を積んだトラックに乗って横須賀の街に入ってきた欣太がヤクザたちの抗争に巻き込まれ、銃撃戦を展開する一方、豚どもを解放してやる。解放された豚どもは夥しい数の集団を形成し、町のなかを突進する。なぜか豚たちが突進する相手はヤクザたちだ。豚どもは、これまでの借りを返してやると言わんばかりに、ヤクザたちに襲い掛かり、押しつぶしてしまうのだ。一方欣太の方は、ヤクザの撃った銃弾に当たり、キャバレーの便所の中で絶命する。

一人取り残された春子は、一時は米兵の妾になると見せかけたが、結局は自分一人で別の街に旅立ってゆく。駅に向かって颯爽と歩いていく彼女が、パンパンたちの集団とすれ違う。パンパンたちの視線の先には、米兵の集団がある。

この映画で描かれた世界を、過去の一時期のこととして済ますわけにはいかないだろう。米軍による日本の国土の一部の占領という状況は、沖縄をはじめとして、今の日本にも厳然と存在している。敗戦後70年も経っているというのに、いまだに戦勝国による国土の占領を許しているのは、どう考えても正常なこととは言えない。そんななかで、今村の重喜劇は、たとえば沖縄の人々の抗議に右往左往する今の政権の姿と重なりあって見えてくる。

吉村実子の演技が光っている。クレヂット画面にはわざわざ「新人」と言う解説がついていたが、新人とは思えないほど見事な演技だ。彼女はこの演技を新藤兼人に買われ、「鬼婆」に出演し、さらに見事な演技で観客を魅了したわけだ。



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