壺齋散人の 映画探検
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今村昌平の映画「赤い殺意」:グズで主体性のない女



今村昌平の1964年の映画「赤い殺意」は、「にっぽん昆虫記」につづき、ある種日本の女の典型を描いた作品。「にっぽん昆虫記」は、一介の娼婦から女衒の女将に大化けする女を描いたが、こちらは、大化けするどころか、自分のみじめな境遇に固着し、そのみじめさの中に諦観の境地を見出して、自らを慰めているような、主体性のない女を描いている。きわめて異なったタイプの女なのだが、今村はどちらに肩入れしているのか。今村自身、「赤い殺意」は自分で一番気に入っている映画だと言っているから、この映画に出てくるような、グズで主体性のない女のほうを好んでいたのかもしれない。

春川ますみ演じる普通の主婦らしき女が主人公である。この女の祖母は、ある男の妾だったのだが、その祖母も死に、母親も死んだあと、かつての祖母の旦那の家にあずけられる。旦那にとっては、一応孫にあたるからだ。しかし、家のものは、この女(さだこ)を、家族としては認めず、女中として扱ってきた。家のドラ息子に子を生まされても、正式な戸籍の手続きもとってもらえない。自分は入籍してもらえないし、子どもは亭主の母親の子として、つまり亭主の弟として登録されているのだ。そんな非人間的な扱いを受けながらも、さだこは亭主とその母親に仕えるのだ。

ある日、亭主と子どもが不在で、自分一人家にいるときに、強盗(露口茂)が押し入ってきて、強姦されてしまう。そのことに傷ついたさだこは、亭主(西村晃)にうけあけることもできず、また、死のうとして死にきれず、悶々とした日々を過ごすのだったが、どういうわけか、強姦した当の強盗が、さだこにほれ込んで、しつこく付きまとうようになる。さだこは、その強盗からなんとか逃れようと思い、金まで与えて、もうつきまとわないでくれと訴えるのだが、強盗は相当頭がいかれているようで、ストーカー行為をやめないばかりか、重ねて強姦に及ぶ。そんな強盗に強姦されているうちに、さだこは肉体的な快楽を覚えるようにもなるのだ。なにせ亭主は、どうしようもない男にかかわらず、外に愛人までもっていて、女房を満足させてやらないのだ。だからさだこも欲求不満になっていたのであろう、強盗とはいえ、男に抱かれることに肉の快楽を感じるのだ。

そんな自分をさだこは、罪深いと感じ、だからこそ自殺を考えたりするのだが、事態を打開しようとする意欲はもたない。そもそも意欲とは無縁な女で、ただ流れに身を任せているだけなのだ。さだこの口癖は、「どうしようもないんだもの」であって、自分から何かを変えようという意欲は一切持たないのである。

この映画は、そうした主体性のない日本の女の、ある種の典型を描いたものだ。こういう女は、最近はさすがに減ってきたが、かつてはそこらじゅうに見られたものだ。そういう女の上に男が君臨することで、日本の男尊女卑的な秩序が保たれていたわけである。男尊女卑という悪風は、男だけの責任ではなく、女もまた共犯者だということを、この映画は感じさせてくれる。

タイトルの「赤い殺意」とは、さだこが時に抱く、自分を迫害するものへの、本能的な敵愾心をいうのであろう。なお、さだこの過去のいきさつは、彼女が時に思い出す、回想の中の出来事として描かれる。



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