壺齋散人の 映画探検
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小栗康平「泥の河」:少年の友情を描く



小栗康平の映画「泥の河」は、日本の映画史上十指で数えられるべき傑作だと思う。すぐれた映画というのは、それが描いている時代の雰囲気を凝縮した形で盛り込んでいる一方、その時代に拘束されない、永遠の時の流れといったものを感じさせるものだが、この映画もまた、そうした特別の時代感覚に満ちている。

この映画が公開されたのは1981年のことで、日本は戦後復興から高度成長を経て成熟した段階に入りつつあったわけだが、映画の中で描かれているのは1961年の時点である。その年は、経済白書がもはや戦後ではない、と宣言した年であったが、その言葉とは裏腹に、町の至る所に戦争の傷跡がまだ残っていた時代だ。わずか20年のタイムラグとはいえ、その間に日本社会がドラスティックな変貌を遂げてしまっていたわけで、その変貌を考え合わせると、この映画はアナクロニズム以外の何ものでもないともいえる。だが、公開当時の観客を含めて、いま現在それを見る者も、そこにアナクロニズムを感じることはほとんどないであろう。それは、この映画に時代を超えたものがあるからだ。

その時代を超えたものは何か、それはなかなか掴みにくくて、なかば直感で掴むしかないのだが、あえて言葉であらわすと、子どもの視点が貫かれていることだと言えるのではないか。子どもの目というのは、無論眼前に展開している同時代の光景をも映すものだが、それ以上に、時代を超えた永遠というようなものにつながっている。子どもというものは、この永遠の要素と出会いながら、一人の人間として自分を形成していくものなのだ。どんな大人も、このようにして一人の大人になってきたのである。だからこそ、その子どもの視線で貫かれたこの映画を見ると、人々はそこに、時代を超えた永遠のメッセージを読み取るわけであろう。

この映画は、貧しいが気の優しい両親の間に生まれた一人の少年と、社会の底辺のそのまた底に生きているような貧しい船上生活者の子どもたちとの心の交流を描いたものだ。舞台となった大阪の河には、戦後しばらくの間、こうした船上生活者たちが多くいたようだ。映画の中に出てくる船上生活者は、母と二人の子どもからなる母子世帯で、母親はまともな職業にはついていない。夜な夜な船に男を連れ込んでは、買春をして暮しを立てているのだ。そんな船のことを土地の人々は廓船と呼んで蔑み、差別するのであるが、主人公の少年の両親は、そんな差別には加担しなかった。却って、自分たちの子どもと船上生活者の子どもとの交流を、暖かく見守ってやる。彼ら自身だって、船上生活者より数段ましな生活をしているわけではない。今でも、川ぞいの河川敷に粗末な小屋を建てて、ささやかなうどん屋をやりながら、その日その日を生きているのだ。

映画はこのうどん屋の少年信雄が、ひとりの少年喜一と出会うところから始まる。どこかからやってきた船がうどん屋の近くの川辺にもやい、その船から出て来た喜一少年と信雄少年が出会う。この出会いから最後の別れのシーンまで、映画は一貫して信雄少年の視点から描かれる。信雄少年は、喜一少年とすぐさま意気投合し、彼の暮らしている船を訪れたりする。船には姉の銀子もいて、信雄は銀子ともすぐに仲良くなる。この船の姉弟は、いつも周囲に気をくばったり、卑屈なところがあるのを信雄少年は何となく感じる。それは社会の差別が彼らを子どもなりに卑屈にさせているのであるが、その辺のところはまだ幼い信雄少年にはわからない。

信雄少年は、二人の母親(加賀まり子)とも話をする機会がある。母親は、信雄少年を前に、自分の半生を語って聞かせ、その中で、船に生まれ船に育った身には、なかなか岡の生活はなじめないと言ったりもする。それは、船上生活者が受けている差別を物語っているのだろうが、社会のことなどよくわからない少年には無論理解できない。理解できるのは、喜一少年が自分の学校仲間からも露骨に差別されることの理不尽さだけだ。

信雄少年は、両親の暖かい眼差しのもとで、二人の子どもたちとの交流を続ける。この映画の大部分は、そうした子どもたちの交流を描いているのだ。だが、交流はいつまでも続かない。やがて別れの日がやってくる。そのきっかけは、信雄少年にとって悲しいものだった。

信雄と喜一の二人は、信雄の母親から小遣を50円ずつもらって、祭の見物に出かける。数日前に、父親が二人を祭に連れて行ってやると約束しながら、突然どこかへいなくなってしまったので、二人だけで、行くことにしたのだ。当時の50円といえば、小遣には十分な金額だったろう。筆者にも記憶があるが、昭和31年当時は、紙芝居が5円で見られたし、10円出せば、東京ではもんじゃ焼きが食えたものだ。二人はこの小遣をなかなか使わずに大事にしていたが、いざ買物をしようとする段になって、なくしてしまったことに気づく。喜一少年の穴の開いたポケットから落ちてしまったのだ。二人は祭の雑踏の中を、それこそ地を這いながら探し求めるが、ついに見つけることができない。この、二人して地を這う場面は、この映画のひとつの見どころだろう。

折角の心のこもった小遣を失って、信雄少年はがっかりする。その信雄少年を慰めようとして、喜一少年は信雄少年を自分の船まで連れて行き、そこで釣りの仕掛けを持ち出して、大勢の蟹を収穫し、その蟹を材料に使って火遊びを始める。その遊びの最中に、信雄少年は、男を抱いた喜一少年の母親の顔を見てしまうのだ。

信雄少年には、なぜか理由はわからないが、自分は見てはいけないものを見てしまった、というような心の動揺を感じる。もはや、平静な気持で船に行くこともできず、喜一らに会う気にもなれない。そうこうしているうちに、船がもやいを解いて動き出した。行方も告げずに去って行こうというのは、信雄少年に恥ずかしいところを見られた船上の母親の恥じらいから出たことなのかもしれなかった。だが、映画では、そのような憶測はいっさい入ってこない。すべては少年の視点から描かれている。少年の視点にとって重大なのは、仲のよかった友だちがいなくなってしまうことの悲しみだけだ。

そこで信雄少年は、過ぎ去っていく船の後を、川岸に沿ってどこまでも追いかけて行く。だが、船からは何の応答もない。その応答のない相手に向かって、少年はどこまでも追いかけて行く。その延々と追いかけて行く場面が、この映画のクライマックスだ。その場面は、この少年が生きていた時代の厳しさを感じさせるとともに、その少年の一人の人間としての感情が、永遠とつながっているのだということも、思い知らせてくれる。

なお、原作となった小説は、大阪の河が舞台ということになっており、映画でもそのようになっているが、実際には名古屋の運河で撮影されたという。水面に材木が浮かんでいる光景がそれを裏書きしているように見える。この材木が、伊勢湾台風の際に、高潮に押し流されて内陸部深くまで侵入したことは、歴史上の惨事として伝えられているとおりである。

この映画の中で、信雄少年の両親を演じた田村高広と藤田弓子は、実に善良で優しい人間像を感じさせた。特に田村の方は、優しさを身体全体で表現しているように受け取れた。父親の坂東妻三郎が、戦前に「無法松の一生」で見せた、子どもを相手にする時のあの善良な顔と、全く同じ善良な顔が見られた。やはり、父子の間柄からだろうか。



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