壺齋散人の 映画探検 |
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「死の棘」は、「泥の河」「伽耶子のために」に続く小栗康平の第三作目の映画である。「泥の河」では小さな子どもの目を通して戦後日本の絶対的な貧困を描き出し、「伽耶子のために」では在日コリアンたちの、これもまたすさまじい貧困を描き出していた小栗だが、この映画では、そうした社会的な視線は後退し、かわって人間の内面に踏み込んでいる。この映画は、夫婦のすさまじい葛藤を描いた心理劇なのである。その心理劇の内面的な世界が、小栗特有の(反技巧的な)カメラワークで、時にはゆったりと、時にはドラマティックに、緩急をつけて展開される。 原作は島尾敏雄の同名の小説である。この小説を筆者は未読だが、自身の体験を描いた私小説だという。妻から浮気を追及された男が次第に精神的に追い詰められていく過程を描いたもので、その追求があまりに異常なので男のほうも辟易として異常な状況に落ち込んでいくのだが、そんな妻の異常さの原因は彼女が心を病んでいたことにあった、というような筋書きのようだ。映画はその筋書きをほぼそのままに再現して、心を病んだ妻と、そんな妻に付き添い続けようと決心した夫とのけなげな努力の物語という体裁をとっている。 心を病んだ妻を松坂慶子が、その夫を岸部一徳が演じている。妻も夫も原作の私小説同様実名である。夫は特攻崩れで、配置先の奄美で島の娘だった妻と出会い、結婚した。妻は軍人としての夫を心の底から尊敬していたが、自分を裏切った浮気者としての夫を許すことができない。愛が強かったその分、裏切られたことへの怒りも強いというわけなのだ。 映画は、妻が夫を詰問する場面から始まる。貞淑だった自分を裏切ったといって責める妻に向かって夫は、これまでのことを深く反省し以後は妻一筋で生きていくからどうか許してほしいと懇願する。妻のほうはなかなか許さない。許さないばかりか、時折は思い出したように激しく夫を責めて、夫の心をずたずたに引き裂くようなことを続ける。この映画(約二時間)のほとんどは、妻が発作的に夫を攻撃し、責めまくるシーンからなっているのである。人によっては、うんざりさせられるのもいることだろう。 映画の前半の部分では、妻が夫を責めるのは、夫が自分を裏切ったことへの怒りからだと思わせているが、やがて、その攻め方があまりにも異常であるために、妻は実は心を病んでいるのであって、彼女が夫を責めるのは、自分の病んだ心の闇から逃れようとするあがきなのではないかと思わせるように変わっていく。そこで観客は、彼女は夫への怒りから心が乱れたのではなく、心が壊れたために夫へ怒りを向けるようになったのではないかと思わせられるのである。 この妻の言動を見ていると、夫やその愛人に対する攻撃性とか、幻覚や妄想に襲われる場面が多々出てくるところから、どうも統合失調症のようにも受け取れる。現実の彼女がどうだったかは別として、少なくとも映画からは、そのようなメッセージが伝わってくる。 特に印象的なシーンを上げると、二人が意地を張り合って裸になるところ(松坂慶子は全体的に豊満な印象にかかわらずこじんまりとした胸をしている)、夫が首吊りの真似をすると妻も一緒に首をつろうとするところ、両親の異常な行動に直面してパニックになった娘が異常な行動をとるようになるところなのだ。特に娘の異常行動は、見ているものに痛々しい感じを引き起こす。その痛々しさは、母親のほうもなかば自覚しているのだが、彼女には自分自身がコントロールできないのだ。 夫は結局妻を精神病院に入れることにする。二人の子どもを叔父夫婦に委託し(子ども等は夫婦が出会った奄美に送られることになる)、自分は妻に付き添って精神病院で起伏することを決意するのだ。 ある日、精神病院の病室から妻の姿が消える。病棟の扉の鍵が閉まっていなかったのだ。夫は不吉な予感に駆られる。病院の中庭には大きな池がある。人間が落ちたら沈んでしまって見えなくなるような深さだ。夫は長い竿を持ってきて、池の底を探る。彼の不安そうな表情がアップで映し出される。観客の目には、その竿の先が妻の体に触れているのではないかと見えてくる。 だが妻は死んではいなかった。突然夫の前に姿を現すと、こう言うのだ。「敏雄(夫のこと)が泣いていたから戻って来た。声を出して、犬みたいに泣いていた」 心がほとんど壊れてしまっても、感情の芯は壊れずに残っている、そんなふうに思わせる場面だ。 こんなわけでこの映画は、夫婦の絆を描きながら、そこに心の病を絡ませているために、なかなかわかりにくいところがある。妻の最後の言葉も、再生への希望につながるのか、あるいはこのまま心が壊れ続けていくことを止められないのか、はっきりとしない。 小栗康平という作家は、物事をはっきりさせようというタイプの人ではないようだ。「泥の河」の少年たちは、互いに挨拶をすることもなく別れていくのだし、「伽耶子のために」の主人公は、愛する人を失った悲しみを表に出すこともなく、静かに去っていく。この映画の中の夫婦にも、はっきりと決まりをつけられるような選択はない。与えられた運命は、それはそれで生きることしかほかにやりようがないではないか、そう言っているようなのである。 |
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