壺齋散人の 映画探検
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大島渚「絞死刑」:死刑制度への批判



大島渚の映画「絞死刑」は、国際的には、死刑制度の廃止あるいは死刑のあり方への疑問をテーマにした作品だという評価が定着しているようだ。それともうひとつ、この作品には、在日朝鮮人への偏見や差別が大きなテーマとして盛り込まれている。とりわけそうした差別を知らず知らず内面化している日本人への問いかけとして。

死刑制度が問題となる場合には、ひとつは死刑の残酷性、もうひとつは冤罪の可能性への配慮などが議論の中心となるところだが、この映画は、このどちらにも大した配慮を払っていない。この映画の中の死刑囚は自分の犯した罪を素直に認めており、その限りで冤罪ではないということになっており、また、絞死刑という死刑の執行方法が彼に残酷な苦痛を与えたということにもなっていない。彼は模範的な死刑囚なのであり、本来なら模範的な死刑囚として模範的な死に方をするべきはずなのであった。それがそうならなかったのは、刑務行政側に落度があったからなのだ。この映画は、その刑務行政の落度と言うか、マヌケぶりを、徹底的に諧謔の対象として描き出している。そういう意味でこの映画は、死刑への疑問と言うよりも、死刑制度の実行を担っている官僚組織への批判と言ってもよい。だからこの映画を法務省関係の役人たちが見たら、怒りを掻き立てられるに違いない。

映画の冒頭近くで、死刑の執行場面が出てくる。死刑を執行する部屋は十数段の階段を上ったところにある。部屋の中央には穴があいており、それを踏み板が塞いでいる。踏み板の上部の天井からは輪になったロープが吊り下げられている。死刑囚はこのロープを首に巻かれた後。足元の踏み板を外される。すると死刑囚の体は自分の体重によって加速されながら落下する。映画を見る限りでは、落下する距離も十二分なら、落下の衝撃も十二分なので、死刑囚は即死するはずなのだ。実際、この映画の絞首刑の場面は、アイゼンハワーの絞首刑のマニュアルに従っている。そのマニュアルによれば、理想的な絞首刑のコツは、死刑囚の身長と同じ長さの距離を落下させることとされている。その通りにすれば、死刑囚は確実にしかも瞬間的に死ぬはずなのである。

ところが、この映画の中の死刑囚は、即死するどころか、いつまでもぶら下がったまま死なないのだ。いつまでもぶら下げて置くわけにもいかず、刑務所長は死刑のやり直しを決心する。しかしそこで問題が生じる。規則によれば、死刑の執行は、死刑囚が心神喪失状態にあっては行えないとある。ところがこの死刑囚は、吊るされた時のショックが原因で記憶を失い、所謂心身喪失の状態に陥ってしまったのである。だから、彼の心身の状態を正常の状態に戻すことが、刑務所長たちの次の課題となる。彼を正常の心身の状態に戻したうえで、改めて吊るし直そうというわけである。

しかし、刑務所長たちの仕事は、人を吊るして殺すことであって、人を正常な心身の状態に戻すことではない。そんな馴れない仕事をしようというのだから、彼らの努力は中々報われない。やることなすこと、どこかキーが狂っている。その狂ったところをこの映画は、面白おかしく映し出して、刑務行政の繁文縟礼ぶりを徹底的に笑い飛ばしているのだ。

このあたりから、在日朝鮮人への差別と偏見とが映画の前面に躍り出てくる。この死刑囚は、1958年の小松川事件の犯人をモデルにしているのであるが、その犯人が在日朝鮮人であったことから、勢い彼の生き様が問題となって来る。その生きざまを描き出す過程で、在日朝鮮人への日本人の偏見と差別が、刑務所長らの言動から伝わって来るようになっている。その言動とはいかにもあからさまなもので、お前がこんな犯罪をおこしたのは、お前が朝鮮人だからだ、というようなえげつないものである。

ともあれ、刑務所長たちの当面の努力は、この死刑囚に自分のアイデンティティをとり戻させることだ。この死刑囚はRという名(小松川事件の犯人李珍宇の頭文字)なのだが、その自分の名前さえ彼は忘れているのだ。そこで刑務所長と彼の部下たちが散々に頭をひねって、彼の記憶を取り戻させようとする。その努力は、最初は刑務所の中で展開されるが、そのうち街の中にまでくり出すようになる。その挙句に、犯行の現場を再現しようともする。犯行とは、被害者の女性を絞殺したうえで、彼女の死体を相手に強姦したというものだ。その犯行を再現する場面で、刑務所の教育部長が金切り声を張りあげながら、怪しげな踊りをする。その歌の文句が面白い、~ひとつとせ、ひとりでやるのを~おそそと申します、といった具合だ(この歌は一時期学生たちの中で流行ったそうだ)。

朝鮮人が日本人の女性を殺して強姦したと言うので、朝鮮人はけしからぬと、声高にアナウンスされる。この映画はかなりな部分で、こうした民族対立をあぶりだすようなところも抱えている。

結局死刑囚は、突如現れた女の幽霊(実在しない姉ということになっている)によって心を浄められ、自分のアイデンティティを取り戻す。それを見た刑務所長たちは心から喜びあい、いまや心置きなく職務に励むことができる段取りとなる。その職務とはいうまでもなく、死刑囚をもう一度吊るし直すことだ。



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