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水の中の八月:石井聰亙



石井聰亙の1995年の映画「水の中の八月」は、少年少女たちが繰り広げるSF風の作品である。人類の不遜が原因で雨が降らなくなり、人々は石化病という奇病にかかって次々と倒れていく。それを見た高校一年生の少女が、自分の身を水にささげることで、再び雨を降らし、人々を救うというような内容である。内容としてはドラマチックなのだが、現実離れしていることと、画面が非常に悠長に流れるので、あまりドラマチックには感じない。

筋書の展開はやや荒唐無稽なところがあるが、映像は独特の美さを感じさせる。主人公の高校一年生泉という少女は、水泳の飛び込みの選手で、美しいフォームでプールに飛び込むシーンが何度も繰り返しうつされる。その泉に上級生の真魚が好意を抱く。とはいっても性的な雰囲気は一切感じさせない。二人とも水に縁のある名前であることがミソだ。

もう一つ、博多の祇園祭のシーンがすばらしい。大勢の男たちが山笠を担いで町を練り歩くところはなかなか迫力がある。これは実際の祭の様子をリアルタイムで取材したものだろう。

泉は県大会で飛び込みを失敗し、そこを真魚が助ける。彼女は瀕死の状態で病院に運ばれるが、一命はとりとめる。だが、精神に失調をきたしてしまう。その言動からして、統合失調症ではないかと思わせる。もっとも映画の中の医師は、そうは言わず、特発性妄想と言っている。わけのわからない妄想という意味だ。

泉の妄想の原因は、隕石から発せられるある種のエネルギーではないかというふうなメッセージが流れる。それを裏付けるように二人は隕石が落ちたと言う山の中に入っていく。隕石は山の奥深くにあった。

そうこうしているうちに、泉が突然へんなことを言う。自分はダイビングが失敗した時に、実は死んだのだ。いまの私は、心が肉体に繋ぎ止められている状態にある。心を肉体から解放したい。そういって水中に消えてしまうのだ。

彼女が消えたあと、にわかに黒雲が沸き起こり、待望の雨が降る。人々は大いに喜ぶ。そんな人々の顔を写しながら映画は終るのだが、あまりにも現実離れしているので、なんだかばかされたような感じになるところだ。

なお、映画の舞台になった石堂高校というのは、福岡高校のことらしい。高校一年生の泉を演じた小嶺麗奈はこの時十五歳だった。つまり本物の高校一年生である。この映画は彼女のみずみずしい表情に救われているといってもよい。




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