壺齋散人の 映画探検
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もう頬づえはつかない:東陽一



1979年の日本映画「もう頬づえはつかない」は、東陽一の出世作になった作品であり、またユニークな女優桃井かおりが初めて主演した作品だ。若い女性のセックスライフともいうべきものを描いたこの映画は、同じような体験を共有している女性たちを中心にして大いに反響を呼び、一種の社会現象まで起こしたと言われる。その割に、ドラマチックな内容ではない。むしろほとんど物語らしさのない退屈な作品というべきである。にもかかわらず大きな社会的反響を呼んだのは、そこに日本人の新しい生き方が反映されていたからではないか。

その新しい生き方とは、セックスに対する若い女性の積極性である。この映画の主人公桃井かおりは、長い間付き合っていた男から捨てられると、早速別の男を自分の部屋に連れこみ、新しいセックスライフを楽しむ。しかしその男とはセックスだけでつながっており、心から愛しているわけではない。いわば男日照りの屈託を紛らわすために、新しい男を連れ込んだというにすぎない。だから、昔の男があらわれると、すぐにそちらになびき、ホテルでセックスを楽しんだ後、はからずも妊娠してしまうようなことになる。この女性は、ガードが甘いのだ。

ガードが甘いのは無理もないかもしれぬ。というのは、この女性はまだ大学生で、世間知らずということになっている。世間知らずではあるが、世間についての興味は持っている。その興味の中でも、セックスの快楽は最高のもので、彼女はその快楽におぼれるようにして、自分の身を崩していくのである。

こういうタイプの女は、それまでの日本では珍しかった。とりわけ映画の世界では、こういう積極的なタイプの女性、とくにセックスに積極的な女は、あまり描かれたことがなかった。日本映画における女性の描き方は、溝口や成瀬に代表されるように、セックスについては受動的で、男に踏みにじられるタイプの女というのが相場だった。だからこの映画の中の桃井かおりのように、自分から男を選び、その男との間でセックスライフを楽しむような女は、全く新しいタイプの女として、驚きを以て受けとられたのである。

もっとも、女学生を中心にして、日本の若い女も積極的にセックスを楽しむような時代にはなっていたのだと思う。だからこそ、多くの若い女を中心にして、桃井かおり演じる新しい女の姿に皆が拍手喝さいしたのではないか。ともあれ、時代の変化を感じさせる映画である。

その時代の変化は、桃井かおりのセックスパートナーが、全共闘世代の政治的な人間から、全共闘以後のノンポリ加減の男に変わっていることにも表れている。ノンポリの男は、前の世代の政治好きを嘲笑する。だからといって、自分自身になんらかの矜持があるわけではない。ただぼんやりと毎日を過ごしているのである。彼にとって、唯一生きる意味は、セックスにあるのだ。セックスこそが人生のすべて、といわんばかりに、この映画の中の男は、盛りのついた猫のように、セックスのことしか頭にないのである。

この映画の中で桃井かおりは、裸体を惜しみなく披露している。彼女は日本人としては大柄なこともあって、豊満なタイプに見えるのだが、いざ裸になってみると、意外とこじんまりした印象である。いかにも平均的な日本の女といった具合である。その桃井かおりは、早稲田の学生ということになっているが、それにしては、あまり知性的な印象は感じられない。




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