壺齋散人の 映画探検
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風音:東陽一



東陽一の2004年の映画「風音」は、沖縄戦がテーマである。沖縄戦といっても、戦争シーンが出て来るわけではない。沖縄戦そのものを描いているのではなく、それが後日に及ぼした影響のようなものに言及しているだけである。それも、直接的な影響ではない。何故なら、この映画に出て来る人々は、沖縄戦そのものを全くと言ってよいほど意識していない。沖縄戦の残した遺産とでもいうべきものに、心の一部を捉われているようなのだ。

沖縄戦で死んだ特攻兵の骸骨が、沖縄諸島のある島の、海を向いた洞窟の一角に安置されている。それに海から吹いてくる風があたると、骸骨が楽器の役割をして、摩訶不思議な音をたてる。その音を地元の人びとは「フウオン」と呼んで、一定の敬意を表している。ところが、ある日その音がしなくなった。子供たちがいたずらをして、骸骨の脇に、釣った魚を入れた瓶を置いたために、風の流れが妨げられて、音をたてなくなったのだ。だが、事情を知らない地元の人びとは、ある女が島にやってきたせいだと誤解する。その女性というのは、かつてその骸骨の主だった男の恋人だった人だ。その女性は、風のたよりに骸骨のことを聞いて、それがかつての恋人なのではないかと、地元の人々に骸骨にまつわる消息を訪ねてまわる。映画は、その様子を中心にして、いくつかのサブプロットを絡ませながら展開していく。

もっとも重要なサブプロットは、男の子を連れた女性の物語だ。その女性は、同居していた男の暴力に耐えられなくなって、子供を連れて生まれ故郷の島に帰って来た。その島で、男の子は親しい友達に恵まれて、しあわせそうな毎日を送れるようになる。問題の魚を入れた瓶というのは、その子と、かれの友達の少年達が、遊び心に置いたものなのだ。この少年達の交わりが、映画に独特の風情を与えている。豊かな自然を背景に、子供たちがのびのびと遊ぶシーンは、「絵の中のぼくの村」における、自然の中での小さな兄弟の天真爛漫な遊びを思い起こさせる。東は、こういうノスタルジックな描写にすぐれているといえる。

もうひとつのサブプロットは、骸骨の主を父とともに埋葬した男の回想だ。その男は、骸骨の消息を訪ねに来た女から刺激される形で、その骸骨を発見して、島で風葬の場とされている洞窟にそれを埋めたことを回想する。男は、骸骨が残した万年筆を形見として持っており、それに書かれていた名前から、女が訪ねている男に相違ないことを理解するが、なぜかそのことを、最後まで女に知らせない。何故かはわからない。そのかわりに、最初は冷たくあたっていた女に、また来てくださいとお世辞を言う。女は重病にかかっていて、あといくらも生きられないのである。

とかくするうち、母子を男が追いかけて来る。男は母親を浜辺に呼び出して復縁をせまり、あまつさえ砂の上で強姦する。どうしようもないやくざ者である。切羽詰まった母親は、男の持っていたナイフで、男を刺し殺す。その死んだ男の遺体を、なぜか骸骨を埋葬した男が始末する。おそらくこの事件は、誰も知らないままに闇に葬られるのだろう。とはいえ、母子はこれを機会に、島を出て行く決意をする。彼らが自動車に乗って去る姿を描き出しながら、映画は終るのである。

というわけで、沖縄諸島のある島を舞台に、沖縄戦の一エピソードを回想する形になっているのだが、沖縄戦に焦点があたっているわけではなく、沖縄の人々の日常的な生活が淡々と描かれているといった風情なのである。その淡々とした日常のなかに、子供たちの天真爛漫な遊びの世界があるわけである。




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