壺齋散人の 映画探検
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深作欣二「火宅の人」:檀一雄の自伝的小説



深作欣二の1986年の映画「火宅の人」は、檀一雄の同名の小説を映画化したものだ。原作は檀自身の自伝的な私小説というべきもので、女にだらしない男の半生を描いている。映画もその雰囲気をよく表現していて、ある種の日本人男性の典型的な姿を垣間見せてくれる。こういうタイプの男、つまり自我が確立していなくて、常に誰かに支えられていないと生きていけないような男は、日本社会においてはかつてはよく見られたタイプであり、今日でも、あたりをよく見渡せば、まだ多く見られるのではないか。そういう男、つまり檀一雄の分身を緒形拳が演じているが、緒方はこういう役をやらせると天下一品だ。「鬼畜」におけるなさけない父親役と並んで、彼の代表的な演技といってよい。

檀の分身である主人公の作家は桂一雄という名で出て来る。映画はその桂の少年時代に母親が若いツバメを作って子どもたちを捨てるところから始まる。桂少年はその時、三人兄妹の長男だった。彼らを捨てた母親を、檀一雄の娘である檀ふみが演じている。檀ふみには淫乱の相はまったく見られないので、ミスキャストといえなくもないが、祖母の役を演じたわけであるから、それなりに思い入れはあったのだと思う。

映画は続いて、桂の女遍歴を追う。女遍歴と言っても、ドン・フアンとは異なり、多くの女を渡り歩くわけではない。本妻のほか、たった二人の女である。一人は役者志望の女、もう一人はいきずりに出会った女。役者志望の女とは、十年間の交際の後やっと結ばれたということになっている。だから男には、それなりの覚悟があってのこと。その覚悟を感じとった妻が、夫につらくあたる。夫は妻の嫉妬の炎に焼かれながら、愛する女と小さな幸せをつかもうとするが、妻と別れて一緒になろうというのでもない。ただだらだらと女にくっついているのである。そんな男に女のほうは愛想をつかすようになる。やがて外に男を作って去っていくのである。

もう一人の女を松坂慶子が演じている。彼女は飲み屋の女給である。喧嘩して行倒れになった桂を解放してやったことが出会いのきっかけ。やがてひょんなことから桂と行動を共にすることになる。日本の各地を二人づれで放浪するのだ。しかしその関係は長くは続かない。シンガポールの金持ちのもとに去っていくのである。なぜシンガポールなのか。そこはあまり説得力のある説明がない。

結局一人取り残された桂は、もとの家、つまり妻のいる家に戻っていく。そんな夫を妻は、大した不平もいわずに受け入れる、というのがこの映画の粗筋で、なんと言うことはない、だらしない亭主の尻拭いをするけなげな女を描いているとも言えるような映画だ。

そのけなげな妻を石田あゆみが演じている。彼女はもともと歌手だが、役者としてもなかなかよい雰囲気を持っている。歌手なのだから主題歌を歌ってもいいところだが、それをやらないのは、当該の妻に歌を歌うような雰囲気がないからだろう。彼女に歌を歌わせたら、たしかに役の雰囲気と乖離することになると思う。

桂をめぐる三人の女のなかで、もっとも長く出て来るのは原田美枝子演じる役者志望の女だが、後半になって出て来る松坂慶子の存在感のほうが大きい。さすがに松坂が出て来ると、映画が一気に締まる。その松坂が、大胆な濡れ場を演じている。相方の緒方としては役者冥利に尽きるところだろう。



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