壺齋散人の 映画探検
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伊藤俊也「プライド 運命の瞬間」:東京裁判を描く



伊藤俊也の1998年の映画「プライド 運命の瞬間」は、東京裁判結審五十周年を記念して作られた。東京裁判を日本側の視点から描いた映画といえば、小林正樹が1983年に作ったドキュメンタリー作品が有名だ。小林の映画は、それまで日本人の間にわだかまっていた東京裁判の正統性への疑問を、裁判全体を追跡することを通じて明らかにしようとしたものだった。伊藤のこの映画は、更に一歩進んで、日本側には裁かれる理由はなく、それを裁こうとする連合国は、法的な根拠をもたない単なる私刑を行ったというようなメッセージを色濃く発している。時代の流れがそうさせたのであろう。この映画では、日本側を代表する東条は英雄に近いような人間像に描かれ、裁く側を代表するキーナン検事はまるで道化のような描かれ方である。

映画は東条英機に焦点を当てながら、それにインド出身のパール判事をからませ、パール判事を介してインドの独立運動にも触れている。パール判事を重視したのは、かれが東京裁判の正統性に疑問を称え、被告全員を無罪と主張した唯一の判事だったからだろう。

映画の見所はなんと言っても東条英機という男の人間像である。東条にはさまざまな評価がある中で、この映画は東条なりの正義の主張に肩入れしている。東条は東条なりに指導者としての責任を果たしたのであり、結果的に敗戦に終わったとはいえ、その責任を東条のみに帰するのはフェアではない、というようなメッセージが強く伝わってくるように作られている。だから、戦後多くの日本人が東条に対して抱いていた批判や怨念のようなものは、一切なくなってしまって、東条の美点ばかりが強調される。実際には東条は、一国の政治指導者として国の道を誤ったばかりか、国際法を無視した「戦陣訓」を率先して作成し、多くの兵士に無駄な死を強いたのであるが、この映画では、そうした東条の負の側面はほとんど触れられることはない。おそらく、東京裁判の不当性を強調したいがために、映画の主人公である東条を、実像以上に理想化したものと思える。

映画の最大の山場は、東条が昭和天皇の戦争責任を回避するために、自分一人の判断で、つまり天皇の意思に逆らって、開戦の決定をしたというふうに証言せよと、主任弁護士の清瀬に説得され、不承不承応じる場面だ。天皇の意思に逆らったということは、逆賊だという意味である。天皇への忠誠では誰にもヒケをとらない自分がなぜ逆賊の汚名をこうむらねばならないのか。その理不尽さに東条は心が壊れ、身が砕け散るのを感じるのだ。その絶望感をアップで映し出した東条(津川雅彦)の表情が圧巻である。

東条にそのような証言をさせるよう細工したのは昭和天皇の側近グループだったようである。東条がそれを知っていたら、天皇への思慕と尊敬の感情は大きく損なわれたに違いない。東条には、自分一人で戦争責任をかぶる覚悟はあったが、逆賊の汚名をこうむることだけは思いだにしていなかった。しかし、いま心ならずも証言することで逆賊の汚名をこうむることになった。そこで東条は、「死後我が魂は怨霊となって彷徨うしかない」と言って絶望する。東条のその絶望にかかわらず、かれの死後、天皇初め生き残った日本人が怨霊に悩まされることはなかった。東条の怨霊は体よく始末されたのである。

そんなわけでこの映画は、東条にかなり感情移入している。東条は、一般に思われているほどの悪人ではないと言いたいかのようである。じっさい、東条は根っからの悪人ではなかったようである。東京裁判の被告の中でも、もっとも冷静に振る舞っていたし、自らの責任を認めるべきところは認める一方、検事の尋問には毅然として答えている。これが有罪になって首を吊るされたのは、戦勝国の憎しみを一身に背負わされた贖罪の山羊としてであった、というような見方が、最近は出回るようになった。この映画はそうした見方を誇張した形て取り込んだものといえよう。

なお、東条の孫が学校でひどいいじめにあうシーンが出てくる。それは、かつてロッキード事件のさいに、丸紅の幹部の子弟が学校でひどいいじめにあったことを思い出させた。



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